自分が死んだ後に、残った財産を寄付する人がいます。

とても立派なことだと思いますが、霊界からの見方では、何もしないよりはましという程度のようです。

死後に残った財産を寄付する人は、気前が良いというよりは利己的な動機で行うことが多いそうです。

すなわち、自分は何も失わずに善行をする名誉を得たいというわけです。

生きている間に自分を犠牲にして善を行う人には、2つのメリットがあるといいます。

1つは自己を犠牲にする功で、もう1つは自分が原因をつくった幸福を目にすることができる喜びです。

しかし、現実には利己心がこうささやくのです。

「お前が人に物を与えれば、その分だけ、お前の楽しみを削っているのだぞ」と。

この利己心の声の方が、無私や愛のささやきよりも、普通はずっと説得力があります。

だから、私たちは自分の持っている物は自分の立場を守るために必要なものだと、自分に言い聞かせて保有し続けるのです。

与える喜びを知らない人は憐れだということになります。

何故なら、最も純粋にして最大の喜びの1つを知らないからです。

神様は私たちに不安で危険な富という試練を与えました。

そして、奉仕がもたらす幸福をその見返りとして私たちの手の届くところに置いているのです。

(参考文献;「霊の書」)

富を得た時に、それを自分の為だけに使うのか、世の為、人の為に使うのかで、私たちの真価が問われるということです。

お金は稼ぐことよりも使うことの方が難しいと思います。

物を買う時でも、自分の欲望を満たすためだけに買うのか、そうではなく生産した人、製作した人、販売する人に喜んでもらうという気持ちを持って購入するのでは大きな違いがあると思います。

お金は天下の回りものと言われますが、人の為、世の為に使ったお金は巡り巡って、何倍にもなって私たちのもとに戻ってくるような気がします。