「般若心経(はんにゃしんきょう)」を写経してもらい、納経料(1巻1,000円)で奈良薬師寺の金堂を再建した高田好胤(こういん)さん。

高田さんの父親は証券会社に勤務していました。

仕事で渡航することもあり、裕福な家庭でした。

ところが、高田さんが11歳の時に胸の病で亡くなってしまいます。

そして、母親の実家である東大寺龍蔵院に身を寄せることになりました。

それを聞いた薬師寺住職の橋本凝胤(ぎょういん)師が弟子として高田さんを引き取ったのです。

修行の辛さや橋本師の厳しい教えに「お父ちゃんさえ生きていてくれたら」と高田さんは随分悔しい思いをしました。

師匠の橋本師は、高田さんが弟子入りした当時、40歳前後、仏教の教えのとおり食事は精進料理、妻帯もしていませんでした。

すべての力を高田さんの育成に注いだのです。

その後、高田さんが副住職として仕えていたある日、橋本師から本坊に呼ばれます。

橋本師が庭にある豊臣秀吉公お手植えといわれる老松を眺めながら、「見てみい、好胤、松かて自分が枯れる時にはちゃんと若い芽を残しとる。わしもなあ、自分の目の黒いうちに、おまはんの晴れ姿がみたいんじゃよ」と言われました。

高田さんは思わず両手をついて「後はよろしくお願いいたします」と言ってしまいました。

高田さんが、橋本師の後を受けて法統を継ぐことを決意した瞬間でした。

高田さんが百万巻のお写経勧進をはじめたのは昭和44年ころからです。

講演の締めくくりに「最後に私からお願いがあります」と、10分ほどお写経の意味について話すのです。

「『般若心経』は国民的なお経で、仏様の前だけでなく神様の前でも唱えられる265文字のお経です。

お写経をしてくだされば、いつしか文字が文字を呼んで、1時間があっという間です。

そして自分の中にこんな清らかな心があったのかと、きっと気づいていただけます」

薬師如来のためとはいえ、自分の寺への寄付を申し出るのは辛かったそうです。

最初の頃は、風呂敷に包んで講演に持って行ったお経も10巻出るか出ないかという状況でした。

白鳳時代の金堂の復興など夢のまた夢でした。

しかし、高田さんの地道な努力が実を結び、講演ごとに700巻、800巻とお経を持っていくようになり、金堂の再建から、西塔、中門、回廊と復興されていきました。

金堂を木造で再建するには10億円が必要でした。

全額寄付しましょうと言ってくれる人もいましたが、高田さんは断りました。

単に金堂を再建するだけではなく、できるだけ多くの人が仏心に触れて幸せになってもらうことに意味があると考えたからです。

高田さんの講演料、出演料、本の印税はすべて薬師寺復興のために使われました。

普段の生活は大変質素で、お堂が経つまでは自坊は修繕せず、築200年以上の家の畳はガムテープで補強してあり、天井の隙間からは星も見えたそうです。

手洗いも床が抜けて腐るまで、ずっと汲み取りだったそうです。

高田さんが、お亡くなりになる時には、お写経の数は650万巻になっていたそうです。

そして、こんなことを語っていたそうです。

「ただの一度もお説法で手を抜いたことがない。いつも一所懸命に全力やったのだけは誇れるな」と。

(参考;『致知』6月号)