人に与える喜び

『致知』2016年10月号に、作家の曽野綾子さんと文学博士の鈴木秀子さんの対談が掲載されていますが、その中で曽野さんが次のような善い話を紹介されていました。

曽野さんが乗った地方のタクシーで、運転手さんから聞いた話だそうです。

その方は親から認められないまま結婚をして、やがて女の子が生まれたそうです。

ところが、その女の子が6歳の時に奥さんが亡くなってしまい、運転手さんが1人で育てることになりました。

タクシー会社に事情を話して夕食の時だけは家に帰って、ご飯を作って娘と一緒に食事をしてという生活を送っていました。

その運転手さんは、「後でお父さんが片づけるからな。茶碗はそのまま放っておきなさい」と言ってまた会社に戻ります。

ところが、帰宅するとその6歳の娘さんがきれいに茶碗を洗い、洗濯機まで回しているそうです。

曽野さんは、思わず「立派に育てられましたね。お宅のお子さん、絶対にぐれませんよ。」と言ったそうです。

というのは、その女の子は人に与える喜びを知っているからです。

だから絶対にぐれない。

ぐれるのは、与えることを知らない子供たちだそうです。

「人は与えたものだけを受け取ることができる」という言葉があります。

善きものを与えれば善きものを受け取ることができ、何も与えなければ、何も受け取ることができません。

このまだ6歳の女の子は、善きものを与えることができているので、必ず善きものを受け取ることでしょう。

また、曽野さんはこんな話もされています。

私は以前から「くれない族」という言葉を使っていますが、それは若者に限った話でありません。

お年寄りにもそういう人はたくさんいます。

友達が「してくれない」、配偶者が「してくれない」、政府が「してくれない」、ケースワーカーが「してくれない」、娘や息子が「してくれない」。

こういう言葉を口にする人は、青年でも壮年でも精神的老化が進んでいるそうです。

同じような意味で、人間としての与える義務を果たすことも必要です。

そうでなくて受けてばかりいると、心が満たされない。

インドに行ったとき、ガンジス川に面したヴァラナシで一人の日本人のお嬢さんとお会いしたそうです。

彼女は学校を出て数年間務めて貯めたお金でインドを旅していました。

安宿に泊まりながら二、三年旅をつづけていると聞いて、曽野さんは感心したそうです。

それで、そこにいたイエズス会の神父に彼女を紹介して、後で「神父様はどうお思いになりましたか」と聞いてみたそうです。

すると「私には少しも幸せに見えなかった」と。

「どうしてでしょう?独立心もあって、自分のお金でインドを見に来た感心な人ですよ」と言ったら、「いや、あの人は自分のしたいことをしているだけで、与えるという一人前の人間としての義務を果たしていない」と言われたそうです。