二宮尊徳の教えを著した「報徳記」の中に次のような話が出てきます。

天保4(1833)年に始まった大飢饉(ききん)では、各地で飢えに苦しむ人が続出して、現在の神奈川県大磯でも多くの人たちが苦境に陥りました。

彼らの一部は暴徒と化すと、米屋を営んでいた川崎孫右衛門の蔵を破壊してしまいました。

この乱暴狼藉(ろうぜき)に怒り狂った孫右衛門はすぐに役所に訴え出ました。

ところがあべこべに孫右衛門のほうが牢獄に放り込まれてしまいます。

なぜなら、孫右衛門は大変なケチで、以前も大飢饉があった折に、米を高く売って大儲けをしたからです。

牢屋で怒り狂う孫右衛門にさらなる不幸が襲(おそ)います。

火事で家が焼け、孫右衛門の妻は幼い子どもを残して病で亡くなってしまうのです。

孫右衛門の怒りは増すばかりです。

そんな孫右衛門のことを心配したのが、孫右衛門の妹でした。

そこで、妹を妻に持つ加藤宗兵衛は、以前縁のあった二宮尊徳を訪れて、孫右衛門一家を救う手はないか相談しました。

ところが、二宮尊徳は、

「そういう結果になるのは因果応報のためで、禍(わざわい)が起るのは何か原因があるからです。

孫右衛門さんは天明の飢饉の折、米を高く売って大儲けをし、人々の憤(いきどお)りを買ったことが原因ではないでしょうか。

にもかかわらず、孫右衛門さんは自らを省(かえり)みることなく、他人を憎むこと甚(はなは)だしい。

お気の毒ですが、どうすることもできません」

と、取りつく島もありません。

それでも宗兵衛がすがりつくように頼み込むと、二宮尊徳は一つだけ方法があると答えました。

それは孫右衛門の妹が牢獄にいる兄と同じように粗衣粗食で辛抱することと、持ち物すべてを売り払って生家再興を心がけること、の二つでした。

それができれば、妹の至誠も通じ、兄の心を動かせるだろう言うのです。

兄のことを思って労苦を厭わない妹の真心にほだされたのでしょう。

改心が見られたことから出獄を許された孫右衛門でしたが、家の再興がままならない状況に鬱々(うつうつ)としたものを拭(ぬぐ)えません。

そんな孫右衛門に対して、二宮尊徳の助言は明快でした。

「家を興そうとの心掛けはいいが、一番大事なことを忘れている。

それは自分を艱難(かんなん)に置いて、他人の困苦(こんく)を救おうとすることだ。

そのためには、どうぞ貧困救済にお役立てくださいと言って、余財すべてを町の人に差し出しなさい」

すると、どうでしょう。

これを実践した孫右衛門の評判は瞬(またた)く間に一変し、商売は再び盛んになっていったのでした。

(引用:超訳 報徳記