恩田聖敬(さとし)さんは、当時FC岐阜のスポンサーであるJトラストという会社に勤めていました。

FC岐阜は毎年最下位争いを演じていて、財政的にも厳しかったので、人的支援のために社長を送り込むという話が持ち掛けられました。

そこで、恩田さんは2014年にJトラストを退社し35歳でFC岐阜の社長に就任しました。

恩田さんは社長就任前の年末に実家に帰省した時にお箸を持つ手に力が入らないと少し違和感を感じていたので、社長になる前に検査を受けて、脳に異常がないことはわかっていました。

ただ、FC岐阜のチームドクターに体に異常があるかどうか診てもらったところ、一度きちんと検査入院をして、体中を診てもらった方がいいと言われました。

その翌月に検査入院をしたのですが、そこでALS(筋萎縮性側索硬化症)の可能性が高いとの診断が下されました。

ALS(筋萎縮性側索硬化症)は、筋肉を動かす運動神経のみが侵され、全身の筋肉がだんだん弱くなっていく難病で、原因は不明です。

病気の進行によって自力歩行ができなくなり、話せなくなり、やがては自力で呼吸できなくなってしまい、人工呼吸器が必要になります。

ただ、知覚や思考は奪われません。

恩田さんは、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の可能性が高いとの診断を受けて、自分の体が動かなくなる未来を想像し、まさに絶望の淵に落とされました。

そして真っ先に頭をよぎったのが奥さんや幼いお子さんたちのことです。

奥さんはどう思うだろうか、恩田さんを見捨ててしまうのではないか。

幼い子供をどう育てればいいのか。

悩みに悩んだ末に、恩田さんは奥さんに単刀直入に病気のことをすべて話しました。

奥さんは恩田さんから目を逸らさずに、「あなたに生きる意思があるなら、一緒にいきていきましょう」と言ってくれました。

恩田さんがALSの診断を受けたのは、ちょうどFC岐阜にラモス瑠偉(るい)さんが監督としてやってきたり、元日本代表の選手が加入したりと、岐阜全体が盛り上がっている時でした。

新しい社長が難病だと分かればそのムードに水を差してしまうと思い、恩田さんはALSであることを隠して社長を続けることを選びました。

しかし、2014年の終わり頃になると、症状が目に見えてわかるようになったので、2015年の1月にALSであることを公表しました。

そして、その年の終わりまで社長を続け、退任しました。

FC岐阜の仕事は転職だと思えるほど楽しくて仕方がなかったので、退任した時には悔しくて悔しくて、何度も泣いたそうです。

FC岐阜の社長を辞め、次にどうするかを考えた時、恩田さんはとにかく働き続けたいと思いました。

FC岐阜に社長以外の立場で残る道や他の企業に勤務するという話などもありましたが、恩田さんは自分のやりたいことをやるたに「まんまる笑店」を起業する道を選びました。

人生はたった一度しかありません。

やれることではなく、やりたいことをやっていくことに意義があると考えました。

いま、恩田さんは自分の言葉で話したり、歩いたりできないほど病気が進行していますが、秘書が恩田さんの言いたいことを通訳し、伝えてくれるので、講演や取材の仕事もこなすことができています。

恩田さんがALSでも前向きでいられるのは、だんだん全身の筋肉は弱っていても、経験や知覚、思考まで奪われるわけではないからです。

恩田さんにはこれまで必死に生きてきた財産があるから、ALSでも絶望しないそうです。

(参照:『致知』3月号より)

35歳の若さでFC岐阜の社長の座を射止めるも、同時にALSという難病に見舞われてしまった恩田さん。

普通ならこんな奈落の底に突き落とされると、立ち上がれることができずに、悲嘆にくれたまま人生を終えてしまう人もいるのではないかと思われますが、明るく前向でいられる恩田さんのメンタリティーはスゴイと思います。

この話を読んで私が感じたことは、天は決して乗り越えられない試練は与えないということです。