福岡県宗像市武丸では、武丸正助という人物のことが250年経った今でも語り継がれています。

武丸正助さんは、江戸時代の中期、寛文11(1671)年に小作という土地を持たない農家に生まれ大変貧しい生活でしたが、宝暦7(1757)年に亡くなるまでの87年間「孝子正助」として人々から敬慕されました。

時の藩主黒田齊隆(なりたか)(11代将軍徳川家斉の実弟)は、その遺徳をしのび正助さん本人はもとより両親のお墓まで建立しました。

正助さんには、こんな逸話が残っています。

年貢米を運ぶ時、当時は馬を使います。

馬の鞍にお米を積んで行き、帰りには馬に乗って帰るのが普通でしたが、正助さんは馬から鞍を外し、その鞍を担いで帰ったそうです。

行きは重たいものを運んでもらうから、せめて帰りは鞍を外して楽になって帰ってもらおうという気持ちからです。

また、ある日、空は曇りいまにも雨が降りそうな中、正助さんが近くの赤間の町まで出かけようとした時のことです。

父は「きょうは雨になるから下駄を履いて行きなさい」と言いますが、家の勝手口では母が「この分ならやがて晴れそうだから草履にしなさい」と言います。

正助さんは、右足に下駄を履き、左足には草履を履いて、赤間の町まで出かけたそうです。

父と母それぞれの言いつけに従うための行為です。

享保2(1718)年、宗像一帯でひどい悪疫が流行った時、次々と村人が倒れていく中、皆病気がうつることを恐れ、病人の出た家には近づこうとしませんでした。

しかし、正助さんは、病気で困っている村人がいればその家を訪ね、看病するのみならず、医師のところに薬を取りに行ってあげたのです。

さらに、病死した人が出ると、家族を心から慰め、お葬式の世話までしてあげたそうです。

(参照:『致知』2017年6月号

「言うは易く、行うは難し」という言葉がありますが、正助さんの「無私」の行為はなかなかまねできるものではありません。

だからこそ、今でも語り継がれているのですね。