Aさんは、昭和13年に神戸高等商船学校に入学したばかりのUさんに初めて会い、1目でUさんを愛してしまいます。

UさんもAさんに好意を持ってくれたので、文通が始まりました。

当時は男女7歳にして席を同じゅうせず、が当たり前の時代でした。

貴重な逢瀬は六甲山の山中や垂水(たるみ)の海沿いの小道をひたすら歩いて、疲れると馬酔木(あせび)の木陰や空木(うつぎ)の下に並んで座って、家族や家のことなどを語り合いました。

Uさんが学校を卒業したと同時に結婚しようという話をしていたので、Aさんは茶の湯、生け花、琴に裁縫と自分を高めることに毎日夢中でした。

ところが、Aさんたちの望みとは裏腹に当時は志那事変から日中戦争へと発展していく時局だったことから、Uさんの学校卒業が短縮され、すぐに船の実習生として横浜へと飛び立ってしまいました。

そして昭和16年12月にアメリカとの開戦があった翌年には、Uさんにも召集令状が届きました。

当時、Uさんからは次のような手紙が届きました。

「小生の希望、父の意志を語り合った結果、父は結婚に賛成し、入籍も希望とあれば何時にても入籍してくれるとの事でした。(中略)日本の軍人として立派にご奉公して、武運あれば生きてお目にかかれましょうが、還り来ぬ身として征く小生の唯一の贈り物です」

最後の贈り物の意味が理解できたのは、Uさんが戦死してからでした。

佐世保で行われた海軍葬の時に、「軍人の遺族には医学校進学の特典がある」という一言があり、Aさんは気づきました。

Uさんは軍遺族に関する国の配慮を知っていたのです。

だから出征前に入籍を急いだのです。

残念ながら父親に再三反対されたためにUさんの生前に入籍することはできませんでしたが、戦死してもなおUさんを慕い続けるAさんを見て、ついに父親も結婚を許してくれました。

昭和19年に裁判所で結婚確認の裁判が行われ、Uさんからの手紙や海軍省に出された結婚許可願などが証拠となって翌日には受理されました。

誰1人声を立てない静かな結婚式でしたが、Aさんは白無垢姿でAさんの遺影とともに式を挙げました。

そして、決心しました。

軍医になろうと。

まだまだ戦争は続くだろうから、軍医になればAさんも戦争に行ける。

そして軍人の妻として運よく戦死できれば、Aさんと一緒に靖国神社にいけるかもしれない。

それがAさんにとって最高の望みでした。

そして、努力の末、昭和20年に東京女子医科専門学校に合格しました。

ところが、その後は東京大空襲をはじめ連日の空襲で東京は一面の焼け野原。

8月15日に終戦を迎えると、Aさんは自分がどうすればよいのかわからなくなってしまいました。

それからしばらくの間は慟哭と絶望の毎日で、Aさんはまさに生ける屍でした。

ただ一つの慰めは、毎夜のように夢に現れて、励ましてくれるUさんでした。

「僕たちは一つなんだから、元気になってほしい。

僕を覚えていてほしい。

君が思い出してくれる限り、僕は生きているんだよ」と。

Uさんの励ましを受け、東京女子医科専門学校を卒業し、医者として60年以上仕事を続けました。

Aさんは、生涯独身を貫いた理由を次のように語っています。

再婚の道がなかったわけではありませんが、私は亡き夫を裏切るようなことはできませんでした。

当時の愛は神聖で真摯そのもので、自分を捨ててでも相手のことを思いやるのが当たり前でした。

私は彼への愛を貫き通すことができた幸せな人間だったと心底思います。

(参照:『致知』2017年6月号

この清く美しい物語の女性は、私の実家がある東京都日野市で90歳まで開業していました。