筋ジストロフィーと闘いながら、今も自分の体で唯一動く足の指先だけでパソコンを操作しながら仕事をする櫻井理さんの生き様です。

櫻井さんが筋ジストロフィーを発病したのは6歳の時でした。

幼稚園の運動会の時、徒競走がとても遅くて転びやすかったので、病院で検査を受けたところ、医師から筋ジストロフィーであること、20歳までしか生きられないことを告げられました。

小学校4年の時には車椅子を使うようになりました。

地元の中学校への進学を希望しましたが、車椅子は受け入れが難しいため、入院しながら病院に隣接する養護学校中等部に進みました。

成長とともに心臓の機能が衰え投薬の量が増えるので、体調はいつも不安定でした。

その頃、腕が思うように動かせなくなり、車椅子を手動から電動に切り替えました。

養護学校に高等部がなかったので、仙台市立仙台高校に進学しました。

高校時代までは車椅子で授業を聴きながらノートを取れる状態でしたが、19歳の時には呼吸困難で意識不明になりそれからは人工呼吸器が手放せなくなりました。

このような状態のため大学進学は断念し、その後も入退院を繰り返しました。

28歳の時には24時間、人工呼吸器が必要になりました。

いつも痰が気管に詰まって炎症を起こし、熱が頻繁に出るので、やりたいことが何もできない毎日が続いていましたが、4年たった頃、痰を自力で出し切るコツをマスターし、それから炎症による高熱が止まり劇的に体調が改善したため、同じ病気仲間の相談に乗るピアカウンセラー養成講座を受講したり、生活環境のアドバスができる福祉住コーディネーター(2級)の資格を取得したりしました。

人生で1番のピンチ

東日本大震災が起こった3月11日の午後、櫻井さんは海岸線から1キロ弱にあるディサービスセンターにいました。

大津波警報が発令されたので、スタッフの車で市民体育館に避難しましたが、ディサービスセンターはその少し後に水没してしまいました。

自宅は無事でしたが、停電が続いていたため人工呼吸器を動かすのに内臓バッテリーを作動させていました。

それだけでは持たないので、車のシガーソケットや外部バッテリーなどの電気を取り入れて万全の対策を取っていましたが、3日目に突然人工呼吸器のアラームが鳴りだし、外部から電源を取る装置が故障してしまいました。

そして、内臓バッテリーも切れて人工呼吸器が停止しました。

母親が手動で空気を送り込む救急蘇生バッグという機器を動かし、すでに電気が回復していた叔母の家に車で移動し、命拾いしたのです。

櫻井さんの教え

僕は呼吸不全などで亡くなっていった同じ病気の仲間をたくさん知っています。

仲間の死に接するたびに、「命ある限り精一杯生きていこう」と自分に言い聞かせてきました。

生かされている分、彼らの思いを受け継いで頑張らなきゃいけないという考えなんです。

僕は死と隣り合わせの状態にあるわけですが、死ぬのが怖いという感覚は全然ありません

将来どうなるかが分かった上で仕事をさせていただいているのだから、全力で動こうと。

自分で限界を設定したら、それで終わりです

僕が小学4年生の時の担任の先生が、車椅子に乗り始めたばかりの僕に「やってやれないことはない やらずにできるわけがない」という言葉を教えてくださいました。

いま思うと、この言葉が僕の原点ですね。

人間は生きているといろいろなピンチに遭遇します。

しかし、そういう時に逃げるのではなく、自分から行動を起こして立ち向かうことが大事だと思っているんです。

僕の場合も、行動を起こすことでいろいろな人に出会い、助けられてきました。

壁にぶつかったら、いまできることは何かを、まず自分で考えてみました。

人から言われたことではなく、自分で解決策を考え、行動することを習慣づけていく

そうすれば必ず方法は見つかると確信しています。

僕自身がそうやって今日まで道を開いてきたのですから。

(参考:『致知』2017年5月号)

こんな立派な人の話を読むと、もう何も言えません。

自分で自分の限界を設けないとはよく言われることで、人間には無限の可能性があるけれどもそこに自分で限界を設けてしむことで、その無限の可能性にふたをしてしまうことになるのです。