京セラ名誉会長の稲盛和夫さんの波乱に富んだ生き様です。

稲盛和夫さんは、幼いころに結核を患い、中学受験には二度も失敗しました。

鹿児島大学に在学していた時は、よく勉強していたので成績は良かったのですが、就職難のため大企業への就職は叶(かな)いませんでした。

そんな中で稲盛さんは、京都にある松風(しょうふう)工業という碍子(がいし)を製造する会社に入社します。

昭和30年のことです。

松風工業は毎月のように給料が遅配する、いまにも潰(つぶ)れそうな会社でした。

当時は寮で自炊をしていたので、近所の八百屋さんに毎日買い物に行きましたが、ある時八百屋でどこに勤めているのか聞かれたので、松風工業に勤めていると答えると、「あんなボロ会社によく入ったわね」と言われる始末でした。

新入社員は5人いましたが、1人辞め、2人辞め、入社した年の秋には、京都大学を卒業した社員と稲盛さんの二人だけになてしまいました。

稲盛さんは、同期の彼と相談して自衛隊の幹部候補生学校に入り直そうということになり、試験を受けたら合格しました。

入隊手続きをするために戸籍抄本が必要だったので、実家に送ってもらうように依頼しましたが、一向に届きませんでした。

結局、時間切れとなり、同期の彼は自衛隊に行き、稲盛さんは松風工業に残ることになりました。

実家のお兄さんが大学の先生のおかげで就職難の時代にようやく入れてもらった会社を何のご恩返しもしないで半年で辞めるとは何事かと戸籍抄本を送ることに反対したからでした。

稲盛さんは、自衛隊に行くのをあきらめてからは、たった一度しかない貴重な人生をとにかく必死に生きていこうと思い直し、配属された研究室で何とか松風工業を再建するために努力しました。

松風工業は、それまでは碍子などの重電用のセラミックをつくっていましたが、これからの時代はテレビをはじめとする家電用のセラミックの需要が増えていくと予想して、新しい高周波の絶縁材料を開発しようと考えたのです。

当時は文献などもあまりなかったので、アメリカの学会誌などを取り寄せて読みながら、独学で研究に没頭しました。

そうすると、徐々に仕事が楽しくなり、寮に帰るのも面倒になったので自炊道具を研究室に持ち込んで、毎日、いつ寝ていつ起きたかもわからないくらい研究漬けの生活を送るようになりました。

その甲斐があり、新しいファインセラミックの開発に成功して、入社してから1年半後には松下電子工業が製造するテレビのブラウン管の部品に使われることになりました。

やがて、研究室は特慈課として独立し、会社の中で唯一黒字が出る部門になりました。

しかし、松風工業全体は、だらだら仕事をして残業代を稼ぐということが常態化していました。

稲盛さんは、そんなことをしていたのでは会社はますます悪くなっていくと考え、部下には「残業はするな。残業したらコストが高くなってしまう。コストを安く抑えることによって利益が出る。だから残業は許さない」と言いました。

管理職でもない、入社して1~2年の社員がそんなことを言ったものですから、労働組合の幹部が稲盛さんの寮の部屋に数人で押しかけてきて、乱闘になりました。

稲盛さんは顔面にケガをしてしまいます。

翌日、労働組合の幹部は、「今日は会社に来ないだろう」と言っていたのに、稲盛さんが包帯を巻いて会社に行ったものですから、みんな驚きますした。

そのうちに今度は組合の幹部が皆を巻き込んで人民裁判を起こしました。

碍子を梱包する木の箱を積み上げ、その上に稲盛さんを乗せ、下の方から激しく追及しました。

その時、稲盛さんはこう言いました。

「私は会社の回し者ではありません。

卑怯なふるまいをして残業代をもらうようなことはすべきでないと言っているんです。

私みたいな男がおってはいかんと言うなら、いますぐにでも私は辞めます。

ただし、そうなればこの会社は潰れ、皆さんは路頭に迷うことになるでしょう。

私は決して間違っているとは思いません。

皆さんの考えこそ正すべきです」

そんな稲盛さんが松風工業を辞めて、京セラを設立することになったのは、それまで何かと面倒を見てくれていた上司が新社長と馬が合わずに閑職に追いやられ、代わりにセラミックについて何も知らない人が新しく技術部長に着任したことが一つのきっかけでした。

ちょうど、その頃、稲盛さんがファインセラミックを開発していることを知った日立製作所から、セラミック真空管を作りたいという依頼を受けました。

稲盛さんは、試作を始めましたが、難しい形状の製品で四苦八苦していました。

その時に、新任の技術部長から「それは君では無理だよ。うちには京都大学を出た優秀な技術屋がいくらでもいるんだから、君は手を引け」と言われたので、稲盛さんは「どうぞ、そうしてください。私はきょう今日限りで辞めますから」と辞表を出しました。

皆が入れ代わり立ち代わり辞める必要はないと慰留し、社長自らも晩御飯を食べながら慰留に努めてくれましたが、信頼も尊敬も置けない上司の下ではどうしても頑張る気になれませんでした。

稲盛さんを可愛がってくれた前任の上司が、京都大学の同級生に稲盛さんの会社設立を支援するように頼んでくれましたが、最初は26歳の稲盛さんを相手にはしてくれませんでした。

しかし、稲盛さんが3回くらい事業の説明に伺うと、最終的に出資をしてくることになりました。

会社を設立して3年目の事です。

7~8名の若い高卒の従業員たちが突然稲盛さんのところに来て、「給料を上げてほしい」とか「賞与を保証してくれないと安心して働けない」ということで、団体交渉みたいなことがありました。

稲盛さんは「いまは会社もできたばかりで何もしてやれないけれども、俺を信じてついてきてくれ。きっと会社を立派にして、皆の待遇もよくしてあげるから」と説得して、命がけで仕事をしました。

その後に「全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、人類、社会の進歩発展に貢献する」という経営理念を思いつき、それに基づいて会社経営をしていこうと誓いました。

東京オリンピックが開催された頃、稲盛さんはまず工場を構えた地元の西ノ京原町(にしのきょうはら)町一(いち)になろう。

次は中京区一、その次は京都一、そして日本一、さらに世界一だ。

我々は世界一の企業になろうと壮大な夢を語り、すさまじい勢いで働いていました。

毎日夜10時、11時まで仕事をしていましたが、ラーメンの屋台のチャルメラが聞こえてくると、皆で食べに行って、そこからまたもうひと頑張りする。

工場に何日も泊まり込んで仕事をしていました。

盛和塾の前身にあたる盛友塾を始めたのは昭和58年のことです。

京都の若手経営者たちが生きた経営学を学ぶ勉強会を開催してほしいと稲盛さんに申し入れました。

稲盛さんが会社を発展させることができたのは、周囲の先輩経営者から教えを受けたおかげであり、それを今度は若い世代に伝えていくことがご恩返しになると思い、ボランティアで始めました。

最初は25名でスタートしましたが、次第に参加者が増え、昭和63年に盛和塾と改め、現在は12,000名を超える会員が集まり、国内で56塾、海外で41塾という規模になっています。

第二電電を立ち上げようと思ったのは、日本の電気通信の自由化があって、当時NTTが独占していた事業に乗り出すことができるようになったからです。

それまで高かった電話料金を安くしてあげることが、世のため人のためになると考え、電気通信事業に参入したのです。

すぐに参入の意思表示をしたわけではなく、毎晩寝る前に「動機善なりや、私心なかりしか」と自問自答することを半年くらい続けた後に、「動機は善だ。私心は一点の曇りもない」「日本国民のためにやるべきだ」と確信して、参入を公表するとともに、昭和59年に第二電電を設立しました。

同時に国鉄や道路公団も通信事業に乗り出し、新幹線の側溝や高速道路沿いに光ファイバーを引くことで、長距離通信を可能にしました。

稲盛さんも国鉄の総裁に、第二電電の光ファイバーを引かせてもらうように頼みましたが、けんもほろろに断られてしまいます。

結局、第二電電は、大阪から東京まで山の峰々に大きなパラボナアンテナを建てて、それを無線で繋ぐという方法を取りました。

鉄骨を重機で山の頂上まで引き上げて、そこに大きなパラボナアンテナをつくるというのはお金もかかるし、大変な事でした。

平成22年にJALが倒産した時には、「会社更生法に基づく会社再建のために会長を引き受けてほしい」と政府から頼まれました。

稲盛さん自身、航空業界のことは何も知りませんでしたし、周りからも「あんな巨大な組織の立て直しは絶対に無理だ」「晩節を汚すことになる」と言われました。

しかし、稲盛さんは倒産したJALを救うことには、三つの大義があることに思い至りました。

一つは、残された32,000人の従業員の雇用を守れる。

二つ目は、日本経済全体への悪影響を食い止めることができる。

三つ目は、ANAとの正しい競争環境を維持して、国民の利便性を図ることができる。

世のため人のために尽くすことが人間として大切だと思っていたので、勝算があるわけではありませんでしたが、必死に頑張ってみようと思い、引き受けました。

着任してみると、JALは役所と同じでした。

東大をはじめ優秀な一流大学を出た幹部10名くらいで構成される企画部がすべての経営方針を決めて、あらゆる指示を出していました。

企画部のメンバーは現場経験のない人ばかりだったので、稲盛さんは企画部を廃止して、現場で働いたことのある人を幹部に引き上げました。

その典型がパイロット出身の植木さんを社長に抜擢したことです。

また、JALは倒産後も便の運航を止めることなく、更生にはいったので、倒産したことを実感できていなかったり、潰れても誰かが何とかしてくれるという意識の従業員が多かったのです。

ですから、稲盛さんは「私はたまたまお世話にきたけれども、皆さんが目覚めて立ち上がり、自分たちで会社を立て直そうとしなければ誰もできませんよ」と、再建の主役は自分自身であるという当事者意識を植え付けるようにしました。

その当時は、毎日夜9時、10時まで食事を取らずに仕事をして、終わった後に近くのコンビニに行って、おにぎりを二つ買ってホテルの部屋で食べるというのが普通でした。

会議の場も真剣勝負でした。

幹部から個別の案件について提案を受ける時、稲盛さんは資料の中身はもちろんのこと、その幹部の心意気もよく見ていました。

気迫や情熱のない幹部に対しては、最初の数分で「もう帰りなさい。君の話には魂がこもっていない。私と刺し違えるつもりで来なさい」と突き返すこともありました。

JALは以前からワンワールドアライアンスに加盟していましたが、倒産後、世界最大手であるアメリカのデルタ航空と業務提携し、スカイチームへの移籍を行うことで、運賃の共通化や運航ダイヤの調整による効率化を図り、収益の拡大を目指そうとしていました。

しかし、いままでお世話になってきたのに、条件が良いからといって急に変節するようなことは、人間の取るべき道ではありません。

稲盛さんはそう考えて、ワンワールドアライアンスに留まりました。

このような意識改革を行うことで、結果として、2,000億円に迫る利益を出す会社に生まれ変わり、再上場を果たすことができたのです。

(参考;『致知』5月号)