今から約100年前、ロシア革命後の出来事です。

首都ペトログラードは内戦の真っただ中。

深刻な食糧危機に陥り、3歳から15歳までの子どもたち800人と引率の教職員合わせて900人が穀倉地帯のウラル地方に避難しました。

しかし、戦火はウラル地方にまで及び、子どもたちは飢えと極寒の中で身を寄せ合いながら生活していました。

そんな惨状を見るに堪えかねたアメリカ聖公会の宣教師ルドルフ・トイスラー博士が救援の手を差し伸べます。

ルドルフ・トイスラー博士はアメリカ赤十字シベリア救護隊を率いていましたが、その後、後任のライリー・アレン隊長に救援の任務を託します。

そして、シベリア鉄道に乗せられた子供たちや教職員は、激しい内戦の中、東へと向かい日本海に面したウラジオストックに到達します。

しかし、革命の嵐はロシア最東端のウラジオストックにまで及んできました。

アレン隊長はその時、太平洋、大西洋を船で渡って子供たちをロシアの西端にあるペトログラードの親元に返すという大計画を立てます。

しかし、社会主義国家となったロシアと対立関係にあるアメリカやイギリスの船会社は、この無謀ともいえる人道支援を引き受けてくれませんでした。

アレン隊長が方々手を尽くして、ようやく協力を取り付けることができたのが勝田銀次郎という船主でした。

この時代は、少し前まで日露戦争を行っていた時代であり、日本にとっても敵対国であるロシア人の救援を勝田船主がなぜ引き受けたのかは、今となっては謎ですが、勝田船主の広い心の為せる業としか言いようがありません。

勝田船主は所有する陽明丸を救出に向かわせることを決断し、わずか1か月半という短期間で貨物船だった陽明丸を客船に改造します。

改造費や輸送費、燃料などはすべてアメリカ赤十字が拠出しましたが、勝田船主自身も現在の金額で数千万円相当のポケットマネーを拠出しています。

神戸を出発した陽明丸はウラジオストックに向けて出発しました。

1920年7月、子どもたちや教職員を乗せた陽明丸は中継地であるサンフランシスコに向けて太平洋を東へと進みます。

最初に日本の室蘭に立ち寄り、その後、8月1日にサンフランシスコに到着し、パナマ運河を経由して、8月28日にニューヨークの港に停泊します。

ちょうどその頃、ワシントンのアメリカ赤十字本社から、直接ペトログラード方面に向かうのではなく、フランスに向かうように指示がありました。

子どもたちの親がフランスに脱出したという情報が、赤十字に入ったからです。

しかし、陽明丸に乗船していたロシア人教師たちは、フランス行きに強く反対します。

フランスはロシアの敵対国ポーランドを軍事支援している国で、子どもたちが人質になることを懸念したからです。

結局、目的地はフランスではなく、ペトログラードにほど近いフィンランドのコイビスト港に決まりました。

ところが、フランスで燃料を補給しフィンランドに向かう陽明丸は、最大の試練に直面します。

バルト海は北海と同様、第一次世界大戦中、連合国海軍とドイツ海軍が激戦を繰り広げた海で、たくさんの機雷が敷設されていたのです。

800人の子どもたちを乗せた大型船が危険極まりない海域を無事に航海できるか否かは、ひとえに船長の茅原氏の手腕にかかっていました。

茅原船長は、バルト海航海に臨み、まず機雷の実態に詳しい地元のパイロット(水先案内人)に協力を求めました。

そして、茅原船長や水先案内人をはじめとする船員たちが、24時間態勢で機雷を監視しながらゆっくりと船を進め、約1週間かけて無事にコイビスト港に到着しました。

戦争や飢餓(きが)を経験し、死の恐怖におびえ続けた子供たちにとって、陽明丸での3か月間の大航海は幸福そのものでした。

赤十字の潤沢な資金により船内には食べ物や衣類がふんだんに積み込まれていたからです。

この陽明丸のことは、これまでの100年間誰にも語られたことがありませんでした。

勝田船主や茅原船長とアメリカ赤十字で秘密裏に行われた救出作戦だったからです。

勝田船主は、お金は天下の回りものであり、あの世まで持っていけるものではないこと、儲かったお金はすべて吐きだし人々の喜びのために使ってこそ意義があること、自分は終始一貫してそのような考えで船会社の経営に当たってきたことを当時述べていたそうです。

そして、不景気のあおりを受けて船会社が倒産し広大な敷地の邸宅が没収された後は、小さな一軒家を建てて晩年までそこで暮らしたそうです。

(参考;『致知』5月号)