幸田露伴が明治時代に著した「努力論」。

努力論には、人生の明暗、幸不幸をいろんな角度から検討し、どうやったら明るく生きられるかが論じられていて、現代でも参考になることが数多く書かれています。

幸田露伴は、「努力論」の中で幸福を手にする人と幸福を手にできない人を観察すると、両者の間には明らかな違いがあると述べています。

幸福を手に入れる人の多くは「惜福」の工夫をする人で、幸福を手に入れられない人の10中8,9までが惜福の工夫をしない人だと述べています。

では、惜福とはどういうことかというと、福を使い尽くさないことです。

幸田露伴は、惜福の工夫ということを具体的に例示しています。

明治時代のことですので、現代とは時代背景が異なりますが、そのまま記載します。

例えば、100万円のお金があるとして、これを使い尽くして1円も残さないのは、惜福の工夫がないということです。

必要なことに使う以外は貯蓄などをして浪費しないのは、惜福の工夫があるということです。

また、母親から新しい着物を贈られたと仮定すると、その美しく軽やかなことを喜び、古い着物がまだ着れるのに、新しい着物を着て、古い着物をタンスにしまい込んでしまい、新しい着物を着崩して折り目もわからないようにしてしまうことは、惜福の工夫がないということです。

母親の厚意に感謝して、新しい着物をすぐには着ずに、古い着物がまだ着れる間は、古い着物を平常の服として着て、新しい着物は冠婚葬祭のようなイベント事のときに着ることは、古い着物も新しい着物も活用し、他人に対しても礼節を失わないこととなるのです。

このようにすることを福を惜しむというのです。

他人が自分に対して信用してくれて、100万円位なら無担保無利息で貸してくれるというとき、よろこんでその100万円を借りることに不都合はありません。

しかし、それは惜福の工夫という点においては欠けているのであって、100万円のうち50万円だけ借りるとか、担保を提供するとか、正当な利子を払うといことが、自分の福を惜しむことになるのです。

すなわち、自由に100万円を使用できるという自分の福を使い尽くさずに、幾分かを残しておく、それを惜福の工夫というのです。

倹約や吝嗇を惜福と解してはいけません。

すべて享受できるところの福を取り尽くさず、使い尽くさずに、これを天というか将来というか、いずれにしても運命に預けておくことを、福を惜しむというのです。

惜福の工夫をしている人は不思議にまた福に遭うものであり、惜福の工夫に欠けている人は不思議に福に遭わないものであることは、面白い世間の現象です。

試みに富豪と言われる人について、惜福の工夫をしている人が多いか、惜福の工夫をしていない人が多いかを調べれば、多くの富豪が惜福を理解している人であることが認められるでしょう。

才能、力量がありながら、薄幸、無福の人を見れば、その人の多くは惜福の工夫に欠けていることを見出すでしょう。

なぜ惜福の者はまた福に遭い、不惜福の者は福に遭わなくなるのでしょうか。

その理由は人間にはわからないが、惜福の者は人に愛され、信頼される者であって、不惜福の者は人に憎悪され心配される者であるから、惜福の者には福運の来訪があり、不惜福の者が福運の来訪をうけないのは、理にかなったことです。

母親から新しい着物を贈られた場合のように、惜福の者の新しい着物を大切にする行為が、母親に満足の感情を引きおこすが、これに反して、不惜福の者が粗末に新しい着物を着崩し、古い着物をタンスの中に押し込んでしまう姿を見るとき、母親は自分が与えたものを粗末に扱うことを嘆くであろうことは明らかです。

人は感情に左右されるものであるから、満足すれば再びまた新たな着物を作って与えようと思うが、そうでなければ再び新たな着物を作って与えるにしても、時間がかかるであろうし、出来映えもよくなくなる可能性があります。

無担保でお金を借りる場合も同様で、惜福の者が利子を提供し、担保を提供し、あるいは金額を減らして借りることは、出資者の信頼を厚くする事につながるから、その後また借りるときもすぐに承諾されるでしょう。

不惜福の者の行為は、たとえ当面の出資者においては何も問題はないとしても、出資者の家族、友人などから心配されることから、いつかはそれらの人々の口から出資に反対する意見が出され、ついには出資者からも心配されて、出資に障害が発生することとなる。

このような2つの例は、実に些細な事であるが、万事このような道理により、惜福の者は数々の福運の来訪を受け、惜福をしない者はついに福運の来訪をうけなくなるのです。

(参照:努力論 (岩波文庫)

惜福という言葉は難しいですが、何か幸運が訪れた時に有難いという感謝の気持ちを持って、有頂天にならずに分をわきまえて、生きていくということでしょうか。