幸田露伴は「努力論」の中で、「惜福」の次に「分福」も大切であると述べています。

分福とは、自分が得た福を他人に分け与えることです。

例えば、自分が大きな西瓜(すいか)をもらったとすると、その全部を自分で食べてしまわずにそのいくらかを残しておくことは惜福です。

そのいくらかを他人に分け与えて自分と共にその美味しさを味わう幸せを得させることが分福です。

また、自分が一つのみかんを得た場合に、自分一人で食べても食べ足りない時でも、その半分を他人に分け与えることも分福です。

惜福の工夫ができる場合とそうでない場合とに関わらず、自分の受けた幸福のいくらかを割いてこれを他人に分け与えて、他人に自分と同じ幸福を少しであっても味合わせることを分福というのです。

惜福は自分の福を取り尽くさず使い尽くさないことをいい、分福は自分の福を他人に分け与えることをいうのです。

惜福は自分の幸福を十分に獲得せずに、そのいくらかを未来もしくは運命というようなものに預けておくことをいい、分福は自分の幸福を十分に使用しないで、そのいくらかを他人に分け与えることをいうので、自分の幸福を自分が十分に使用しないところは、惜福も分福も全く同じで、両方とも自分にとっては利益が少なく、不利益を受けているようなものです。

しかし、惜福をすることにより福を惜しむ者が新たな福運を呼び寄せるように、分福をすることにより福を分け与える人に福運を呼び寄せることは、世間の実例が示していることです。

自分が人に福を分け与えれば、人もまた自分に福を分け与えようとし、人が自分に福を与えることができなくても、人は心ひそかに自分に福があることを祈るものです。

ここに商店の店主がいると仮定し、その店主が利益を出すと必ずこれを従業員に分け与えるならば、従業員は店主が福利を得ることはすなわち自分の福利を得ることになるから、業務に励み主人に利益を出させようとすることは当然のことです。

これに反して、店主がもし利益を得てもすべて自分のものにして、従業員に対して何も分福の行為をしないとすると、従業員は労働の対価として相当の報酬を得るという契約に不満は抱かないにしても、店主の利益、不利益は自分に関係のないこととして店主に福利を得させようとする気持ちは薄く、店主が福利を得る機会を喪失させてしまうことが多くなるのです。

分福の工夫に欠けた人は自分だけを頼りにしなければならない状況になるので、他人の力によって福を得ることは少ないのが、実際のところです。

(参照:努力論 (岩波文庫)

欧米では自分の得た収入の2割ぐらいを寄付するという文化があるそうですが、分福というのも似たような考えで、自分の福を独り占めしないで、他人に分け与えるというものです。

幸福になるためには必須の行為だと思います。