私の病の発端は、5歳の時まで遡ります。

家業で忙しかった両親の代わりにパパ・ママと呼ぶほど慕っていた里親が事業に失敗して、突然夜逃げしてしまったのです。

その喪失感から人を信頼できなくなり、幼い私は自分ひとりで生きていくと固く決意しました。

その後、実家で暮らすようになったものの、自炊を始め、風邪をひいても自力で治す方法を探すなど、誰にも頼ることなく、感情を押し殺して過ごすようになりました。

小学4年生になると、ストイックな生活がたたり、斜視、分裂症など、幾多の病状に苦しむようになりました。

心身共に助けを求めてはいるものの、私の心にあったのは「この症状を絶対に誰にも見せるもんか」という必死で頑(かたく)なな一念のみ。

愛情を注いでくれない両親への憎しみもあったのでしょう。

自分が誰だか分からなくなると、足のつけ根を強くつねって正気を取り戻しつつ一人耐え忍びました。

なぜ自分ばかり次から次へと困難が来るのか。

何のために生きているのか。

自問する十代、二十代を過ごしました。

一方、家業は父が飲食業から不動産業まで手広く拡大し、従業員も200~300名ほどに増加したところでバブルが崩壊。

多額の借金を負う羽目になり、会社も私生活も窮地に立たされました。

そんな状況下で長男の私は24歳の時に会社を存続させるために家業を継ぐことになり、「借金を返さなければ」といった責任感に駆られ、極度の完璧主義者だったことも相まって、過呼吸とパニック障害の発作に常時悩まされるようになりました。

錯乱状態になり、何度自殺を試みたかしれません。

そして、25歳の時、遂に外出できなくなりました。

電話カウンセリングを頼っても、他人事で通り一遍な受け答えばかり。

苦境から逃れたい一心で、安岡正篤先生やゲーテをはじめ思想や哲学、心理学の本を貪(むさぼ)るように読み、自分で自分にカウンセリングするようになりました。

日中は会社経営を行い、真夜中には人目に触れず外出のトレーニングを積みました。

今でも覚えているのが、自宅から200mの距離のコンビニに何とかたどり着くと、もう二度とこの場所には来れないのでは、という強迫観念に駆られ、駐車場に這いつくばり石や土を食べてしまうのです。

当時は無我夢中で、異様な行動をしている自覚はありませんでした。

どん底を経験しながらも、私が光を見失わずにいられたのは、一人の恩人の存在があったからでした。

その方は大企業の社長で、年に数回お会いしていましたが、私の顔を見て瞬時に「もっと頑張れ」と言ってビンタしたり、「もういいよ、頑張るな」と抱きしめてくれたり、その時々の私の状況に合わせて言葉をかけてくれるのでした。

心の奥底で希望の光が消えそうになり、もう死ぬしかないと首にロープをかけた時にも、「またその方に会えるかもしれない」という思いが脳裏をよぎり、踏みとどまることができました。

ところが何と、その方は50代の若さで急死してしまったのです。

ガンでした。

葬儀に出たくても、外出できない私は涙を呑(の)むしかありませんでした。

1年後に社葬が行われることを知ると、何としても参加しなければと思い立ち、毎晩精神安定剤を飲み、もうろうとしながらも死ぬ気で外出のトレーニングを重ねました。

当初は500mすら移動できなかったものの、徐々に距離も延び、どうにか社葬に参加できました。

その時は何も恩返しできずに過ごしている自分が不甲斐なく、ただ号泣(ごうきゅう)することしかできませんでした。

しかし、絶対にご恩に報いたいという感謝の思いが原動力となり、その方のように、必要な時に必要な言葉を掛けらる人物になると決意したのです。

35歳の時でした。

すると、その後のトレーニングは着実に進み、私は病を克服。

病院などの既存のサービスで満足に治療を受けられなかった苦い体験をもとに、経験者である自分だからこそできるカウンセリングをしてきました。

特別なことをしたつもりはありませんでしたが、カウンセリングを希望する方が口コミで広がり続け、一時は400名の方を半年先まで予約待ちさせてしまいました。

自分一人がカウンセラーとして関われる人数に限界があることを痛感して、現在はカウンセラーに加えてコーチ、セラピストなども含めた対人援助者の育成に力を入れています。

そして、将来的には過去の私のように会社の重責に苦しむ後継者の支援もしていこうと考えています。

私は一人の恩人によって生かされ、感謝の思いを支えに今日まで生きてきました。

私と同様に、生かされた命を全うすることが、どんなに幸せなことなのか、一人でも多くの方に知ってほしい。

その一心で今後も仕事に打ち込みたいと思います。

(引用:致知 中島 輝氏 心理カウンセラー、国際コミュニティーセラピスト協会代表)