児童虐待防止機構オレンジCAPO理事長を務める島田妙子さんは、4歳の時に両親が離婚し、二人のお兄さんと一緒に児童養護施設に預けられることになりました。

島田さんが7歳の時に父親が再婚すると、二人のお兄さんとともに父親と一緒に暮らすようになりました。

当時、継母は22歳。

最初は優しい人でしたが、お腹に父親との子供を身ごもると次第に余裕を失い、自分が産んだわけでもなく、年子で手のかかる年齢の島田さんたち兄妹の世話が億劫になったのでしょう。

その年の冬、ストレスが爆発しました。

突然、継母が靴ベラで島田さんの二の腕を叩いたのです。

驚きのあまり声が出ず、叩かれたところをさすると、さする指をさらに力いっぱい叩かれて、出血しました。

理由がわからない上に、継母の顔つきがいつもと違うことがただ恐ろしくて、島田さんは涙が止まりませんでした。

そして、継母の口から出てきたのは「ごめん」という言葉ではなく、「なんやその目は!」という自分を正当化する言葉でした。

その日から、継母は毎日島田さんたちを叩くようになりました。

そして必ず、「これは躾(しつけ)やで」と言い続けるようになりました。

食器を洗っていたら後ろから蹴飛ばされたり、真冬でも自分たちの洗濯物を洗濯板で洗うのは当たり前でした。

一晩中寝かせてもらえない、食事を抜かれるというのはましなほうで、たばこの火やアイロンの熱で何度も全身をあぶられました。

父親と継母は絶えずケンカするようになり、父親の顔は次第に鬼の形相に変わって酒量も増えました。

そして継母からの「躾」が始まった1か月後、父親からも暴力を受けるようになりました。

包丁を握った父親に追いかけられ命からがら逃げたこと、湯船に沈められて死にかけたこともありました。

それでも父親の優しかった頃を知っているので、いつか優しい父親に戻ってくれるのではないかという願いと希望だけで耐え抜きました。

その思いがあったので、誰かに助けを求めることもしませんでした。

一軒家のベランダに裸で放り出されたことありました。

そんな辛い日々の中で唯一支えになったのが、お兄さんの存在でした。

島田さん一人で虐待を受けていたら、とっくに死んでいたでしょう。

何度も家出しましたし、中学1年生の時には自殺未遂もしました。

でも、それは辛いから死ぬのではありません。

島田さんが死んだら、親は気づいてくれるのではないか。

見せしめのために遺書を書いて死んでやろう。

そういった気持でした。

そんな島田さんに二番目のお兄さんは「あと2年で中学を卒業し、家を出れるやんか」としかり、自殺を止めてくれました。

その頃の状況は、三人で親を殺すか、島田さんたちが死ぬか。

毎日どちらかの選択を迫られるがごとく、生き地獄の日々でした。

そんな島田さんに転機が訪れたのは中学二年生の時でした。

27歳の若い女性が担任になり、島田さんのあざや傷を心配し、常に注意してくれるようになったのです。

島田さんは大人を信用していませんでしたので、絶対に何もしゃべらないと固く心に決めていました。

それでも先生は「何かあったら電話してくるんやで」と、10円玉をくれるなど、見守ってくれました。

そんな5月のある日、事件が起きました。

泥酔して帰宅した父親に、島田さんは初めて首を絞められ、意識を失いかけました。

一番上のお兄さんが父親を突き飛ばして助けてくれたのですが、それにカチンと来た父親は、そばにあったガラスの灰皿をもってお兄さんの頭を思いきり殴りました。

お兄さんの頭からは血があふれ出ていました。

暴力が表ざたになることを恐れた父親は、自宅にあった普通の針と木綿糸で、麻酔もなしにお兄さんの頭を縫い始めました。

その日の晩、お兄さんは父親と継母の寝室の前で金属バットを握りしめ、震えながら泣いていました。

一番上のお兄さんはもう中学を卒業していたので、次の日家を出ると、二度と戻ってくる事はありませんでした。

島田さんも二番目のお兄さんもそんな生活が嫌で仕方がありませんでしたが、何事もなかったかのように学校に行くしかありません。

でも、その時は限界でした。

島田さんは絶対に誰も頼らないつもりでしたが、学校から帰宅すると以前もらった10円玉を使って、担任の先生に電話し打ち明けました。

学校に呼びだされた父親と継母は、虐待について饒舌に言い訳するばかり。

すると、担任の先生が「子供に暴力振るってるやろ!言い訳は絶対に許さない。親子でも、やったらあかんもんはあかんのや」

とはっきり言ってくれました。

その後、島田さんは児童養護施設に保護されました。

中学2年生の5月から卒業までの2年間、そこで過ごせたことは本当にありがたかったといいます。

今みたいに心のケアをしてくれるような環境は整っていませんでしたが、布団で寝られる、ご飯が三回食べられる、そして何よりも暴力を振るわれない。

普通の生活を送ることができる幸せを噛みしめたそうです。

島田さんが施設に入った直後、父親と継母は離婚し、父親はマンションに1人で暮らすようになりました。

それから一年半後のこと。

ちょうどクリスマスイブの一週間前、養護施設に父親から電話がかかってきました。

そして、父親は話し始めました。

「悪かった。許してもらおうとかそんなんで電話したんじゃないねん。

ただ、ほんまに悪かったって、それだけ伝えたかったんや」

そういうと電話を切りました。

そして、その1週間後、父親はお酒と強力なパイプ洗浄剤を一気に飲み自殺を図りました。

連絡を受けて島田さんは病院に駆けつけましたが、そこにいたのは島田さんの知っている父親ではありませんでした。

がりがりにやせ細り、全身管だらけ。

それから8か月後、42歳で最期を迎えました。

一方、継母は父親と離婚後、実の息子と二人で生活していました。

島田さんは、義理の弟が大好きだったので、何度か会いに行っていたため、その後も交流がありました。

ところが義理の弟が結婚して家を出ると、継母の生活は再び荒れて、お酒やパチンコに夢中になり、島田さんや実の息子に何度もお金を無心するようになりました。

結局、継母は52歳で自宅の一室で孤独死しました。

島田さんは、現在虐待を生き抜いた自分だから伝えられることを、全国で講演して回っています。

「何でそんなに明るいのですか」

と最近よく聞かれるそうです。

そして、島田さんは次のように続けます。

過去の自分のよかったことを一つ上げるとすれば、立ち上がる力があったことだと言います。

私は自分のことをタンポポだと思っています。

踏まれて踏まれて、落ち込んだとしても、何度でも立ち上がる。

人生に嫌なこと、悲しいこと、腹の立つことなどいくらでもあります。

その度にへこんではダメ。

一晩悲しい思いをして、立ち上がる。

なにくそと自分を奮い立たせる。

その連続が人生です。

私は中卒ですから「学」はありません。

しかし、自信があります。

生きてきたという自信です。

よい学校に行くことだけが幸せではなく、お天道様に堂々と胸を張って生きられることが、一番幸せな人生だと思っています。

ですから、私はいま最高に幸せです。

死ぬまでに、こんなにも生きている実感や役に立っていると感動を得られる仕事ができている人はそう多くはいないと思います。

この二度とない人生、天から与えられた命を大切にし過ぎて挑戦しない生き方はもったいないと思います。

過去や現在にどんな辛いことがあったとしても、未来には素晴らしい世界が広がっていることを、一人でも多くの方にお伝えしたい。

(参照:『致知』3月号より)

島田さんは、子どもの頃の虐待だけではなく、その後も自閉症のご子息を育て、義理の両親の介護に追われるという苦労を乗り越えてきました。

それこそ、タンポポのように踏まれても踏まれても、そのたびに立ち上がってきました。

天は乗り越えられない試練は与えないといいいますが、島田さんの話を読んでまさにその通りだと思います。

そして、島田さんは今、最高に幸せだと言い切れる人生を歩んでいます。

厳しい試練を乗り越えた人間だけが手にすることができるものです。