増田明美さんは成田高校在学中に陸上の長距離種目で次々に日本記録を樹立し、天才少女として脚光を浴びていました。

高校を卒業したら教員になるつもりでいましたが、2年後のロサンゼルスオリンピックで女子マラソンが初めて正式種目になることを知り、高校の恩師ともども川崎製鉄にお世話になることになりました。

しかし、恩師と長時間一緒に行動するようになり、増田明美さんの気持ちが恩師から少しづつ離れていき、ほとんど口もきかない関係になってしまいました。

そんなこともあり、オリンピック直前の暑さ対策に失敗して思うような練習ができなくなり、オリンピックの舞台では途中棄権という結果になってしまいました。

救護室に運ばれて検査を受けながらテレビの画面を見ると、スイスのアンデルセンという選手がフラフラになりながらゴールして、喝采を浴びていました。

増田明美さんは、その様子を見て「あそこまで頑張っている人がいるのに、自分はここにいる。もう日本には帰れない」と思ったそうです。

増田明美さんが帰国して空港のゲートから出てきた時には、「非国民!」と言われました。

そんな言葉を実際に聞いたのは生まれて初めてで、大きなショックを受けました。

それから3か月間は川崎製鉄の寮に閉じこもって、どうしたら楽に死ねるんだろうと、そればかり考えていました。

当時、増田明美さんは世の中の人がみんな増田さんを非国民だと言っていると思い込んでいました。

しかし、励ましの手紙が次々と実家に届いたのです。

その時に、増田明美さんは思いました。

人を傷つける言葉を投げつける人もいるけど、落ち込んでいる人を慰めて励ましてくれる人もいる。

どっちの人になりたいか。

やっぱり励ましてあげる側の人になりたい。

たくさんの手紙に励まされて元気になると、またマラソンを走りたくなりました。

もう一回マラソンでゴールまでたどり着いて、オリンピックの時から止まったままの時計を前へ進めたかったのです。

勇気を振り絞り、ロサンゼルスオリンピックから4年後の大阪国際女子マラソンに参加しました。

ロサンゼルスオリンピックの切符をつかんだ思い出の大会です。

最初は「おかえりー」なんていう声援などをもらい、うれしい気持ちで走っていました。

ところが、27キロ地点で「増田、お前の時代は終わったんや」という男性の声が沿道から飛び込んできた時に、ピタッと足が止まってしまいました。

しかし後ろから来た市民ランナーが「一緒に走ろう」って声をかけてくれたり、肩を叩いてくれたりしたことで、増田明美さんはもう一度走り出すことができたのです。

陸上競技場のある長居公園に戻ってきた時には涙が止まりませんでした。

「本当に皆さんのお陰で頑張れました。あのゴールがなければいまの自分はないと思います」と増田明美さんは振り返っています。

(参照:『致知』2017年6月号

増田明美さんは、ロサンゼルスオリンピック当時を振り返り、本当に掛け替えのない人生の勉強をさせてもらったと述べています。

増田さんが経験した逆境は、まさに「艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉にす」という言葉どおりの結果をもたらしたのではないでしょうか。