第一次世界大戦やロシア革命の混乱の中、シベリアにいたポーランド人が数多く亡くなり、両親を失った孤児が何千人といました。

その悲惨な状況を見るに見かねたウラジオストク在住のポーランド人たちが立ち上がり、大正8年に「ポーランド救済委員会」がつくられました。

救済委員会が欧米各国に「孤児たちを助けてほしい」と訴えましたが、悉(ことごと)く断られてしまいます。

最後に残った日本に救済委員会の会長が訪れて、当時の原敬(たかし)内閣に孤児を救済してほしいと嘆願します。

日本政府は、その救済の申し出を快諾します。

日本赤十字社が救済活動の中心を担い、翌年の7月には、375人のポーランド孤児を陸軍輸送船に乗せ、敦賀(つるが)経由で東京まで運びました。

孤児たちは飢えて体はガリガリにやせ細り、半病人もたくさんいましたが、全員治療して健康にし、着物も与えて、ポーランドまで送り返しました。

大正11年にも、第二回救済事業として大阪で390人の孤児たちを受け入れ、同じく1人の死者を出すことなくポーランドに送り返しました。

この第1回救済事業の時に、日本国内で腸チフスが流行し、20数人の孤児たちが腸チフスに罹(かか)ってしまいます。

日本の医師や看護師たちが、ここで死者を出しては申し訳ないと全力をあげて治療したことで、全員元気にすることができたのですが、その時に看護をした23歳の松沢フミという女性が腸チフスに罹ってしまいます。

しかし、松沢フミは腸チフスになっても、昼夜問わず献身的に孤児たちを看護し続け、心配する同僚たちにこう言ったそうです。

「人は誰でも自分の子どもや弟や妹が病に倒れたら。己が身を犠牲にしても助けようとします。

けれどもこの子たちは両親も兄弟、姉妹もいないのです。

誰かがその代わりにならなければなりません。

私は決めたのです。

この子たちの姉になると」

そして、フミは殉職します。

フミは、医師が「もうこの子は助からないかもしれない」という女の子を、「どうせ死ぬなら、私の手の中で死なせてあげよう」と言って、毎晩、就寝の時に抱き寄せて添い寝しました。

それで、腸チフスがうつってしまったのです。

(参照:『致知』4月号より)

人類みな兄妹という言葉がありますが、頭では理解していてもそれを実践できる人は少ないのではないでしょうか。

大正時代に、わが身を犠牲にしてまでポーランドの孤児救済のために尽くした女性松沢フミさんという方は立派です。

日本人には、大正の当時も今も、この博愛の精神が宿っているのです。