大村さんは1935年、山梨の農家の家に生まれました。

子供の頃、最も影響を受けたのが、農作業が忙しい両親の代わりに10歳まで面倒を見てくれた祖母でした。

大村さんはこの祖母から「世の中で一番大事なことは、人の為になることだ」と繰り返し言い聞かされて育ちました。

農繁期になると、暗いうちから起こされて両親と一緒に野良仕事をし、近所の仲間が家を出てくる頃に野良仕事を解放されて学校に通いました。

農作業は厳しく少年の小さな体でそれをこなすのは大変なことでしたが、厳しい農作業のおかげで徹底的に体力も精神力も鍛えられました。

お百姓をするには体を鍛えなければならないと考え、高校からはスポーツに打ち込みました。

特に力を入れたのがスキーと卓球で、スキーは高校3年の時に山梨県の選手権大会で優勝して以来、長距離で5年連続優勝を果たしました。

大村さんはスキーでたくさんの優勝カップをもらいましたが、それはレベルの高い新潟県に行って練習したからで、山梨に帰れば楽々優勝できる力が自ずとついていたのです。

大村さんが指導を受けたスキーの先生から、かつて新潟県は北海道にどうしても勝てなかったが、北海道へ行って教わるのをやめて自分たちで独自に工夫するようになって初めて北海道に勝てるようになったと聞かされました。

あるレベルまでは優れた人の指導を仰ぐことが大切ですが、それを超えるには自分独自の創造性や個性を生かして戦わなければ勝てないことを、大村さんは学んだのです。

同級生は受験勉強に励む中、大村さんはスキーや山にばかり行って、高校3年の時は一番成績の悪いクラスに在籍していました。

ところが、高校3年の春に盲腸の手術をし、療養中に本を読んでいるのを父親が見て、「勉強したいなら、大学に行かせてやる」と言ってくれました。

そうか、そんな道もあったのかということで、夜は数時間しか寝ずに猛勉強を始めました。

先生には無理だと言われていましたが、何とか山梨大学に合格したのです。

 

大村さんは大学を出たら教職に就こうと考えていましたが、あいにくその年は地元山梨での採用がなく、倍率30倍以上の東京都の高校教員採用試験に合格し、東京都墨田工業高校夜間部の教員として働き始めました。

夜間で学ぶ生徒は仕事との両立が大変で、35人入っても卒業する時は20人、15人になってしまうのが常でした。

学期末の時に、時間ギリギリに飛び込んできた生徒がいました。

答案用紙に向かうその生徒の手を見ると、油で汚れているのです。

それを見て大村さんは大変ショックを受けました。

この生徒は仕事をしながらこんなに一所懸命勉強をしているのに、自分は一体何をやっているんだろうと。

大村さんはもう一度心を入れ替えて学び直そうと決意して、まず東京教育大学(現・筑波大学)の聴講生として1年間勉強し、さらに東京理科大学の大学院に進みました。

昼間は理科大で勉強し、夕方になると墨田工業高校で教え、授業が終わると理科大の研究室や東京工業試験所の研究室で実験に打ち込むといった生活をしていました。

当時は、給料をもらうとまず通学・通勤用の定期券を買い込み、それから食料確保のため即席ラーメンを1箱買い込みました。

残ったお金はほとんど学納金や本を買うのに費やして勉強しました。

そうして理科大の修士を修了した大村さんは、28歳の時に教師を辞めて研究者になることを決意したのです。

(参照:『致知』2017年6月号)

大村智さんは、幼少期の体験を振り返り、コンラート・ローレンツというノーベル賞学者が「子供の時に肉体的に辛い経験を与えないと、大人になって不幸だ」と言っているように、厳しい農作業のおかげで徹底的に体力も精神力も鍛えられ、私はとても幸せだったと述懐しています。

まさに「艱難(かんなん) 汝(なんじ)を 玉(たま)にす」です。