100円ショップダイソーの社長矢野博文氏の創業秘話

100円ショップダイソーを経営する矢野博文さんは、中央大学在学中に結婚し、大学を出てすぐ奥さんの実家に行きました。

奥さんの実家は広島の尾道で70坪の魚屋を3つ経営し、従業員も60人ほどいる会社でした。

矢野さんは義理のお父さんが始めた養殖業を引き継ぎましたが、2年半後に700万円の借金を背負ってしまいます。

矢野さんはこのままやっていたら一生浮かびあがれないと思い、26歳の時に奥さんと小さな子供を連れて東京へ夜逃げをしたのです。

東京で百科事典の訪問販売をしましたが、全く売れず、30人中30番の営業成績でした。

その後もチリ紙交換の仕事とかいろいろやりましたが、何をやってもダメで、結局9回も転職しました。

ある時には義理のお兄さんが経営するボウリング場を手伝いましたが、そこも倒産してしまいます。

その時に矢野さんは思いました。

「俺は運命の女神に嫌われているんだ。俺の人生は夜逃げで終わったな。運は最低だから、一所懸命に働いて飯さえ食えれば満足だ」と。

そこで、1972年、矢野さんが29歳の時に雑貨の移動販売を行う矢野商店を広島で創業し、5年後に大創産業を設立して100円均一の移動販売を始めたのです。

当時は、毎日朝5時に売りに出かけ、家に帰ってくるのは夜の11時、12時。

生きることに精一杯でした。

トラックに雑貨を積み込み、公民館や空き地で移動販売をしていました。

ある時、お昼ごろに着いたら、お客さんが沢山待っています。

トラックから商品を下ろしたら、お客さんが勝手に開けて、「これなんぼ?」「これなんぼ?」って言うのです。

矢野さんはいちいち伝票を見る間がないので、「なんでも100円」って、ついつい言ってしまったのが100円ショップの始まりでした。

100円ショップを始めた当初は原価が70円以下の品物しか仕入れていませんでした。

100円均一の移動販売を始めて5年ほど経った頃、小さなスーパーの一画を借りて販売していた時に、あるお客さんが「この前、これ買うたらすぐ壊れた。安物買いの銭失いやわ」って周りに聞こえるくらい大きな声でいうのです。

その一声に矢野さんは情けなくなって、「もうこんな商売やめよう」と思いました。

それで在庫を処分するために、セールの目玉商品にしようと思っていた仕入れ値が100円以上する品物も並べました。

すると、「えっ、これ100円でいいの」ってお客さんが集まってきて、ものすごい勢いで売れたのです。

その光景をたまたま見たスーパーの卸業者が「卸値が120円する商品を98円にするから売ってほしい」と頼んできました。

そしたらまた、その商品がお客さんの人気を集めて、今度は他のスーパーから「店舗を安く貸すから出店してほしい」と、どんどん好転していったのです。

そこから原価が98円とか99円の商品も扱うようにしました。

矢野さんは、20代の頃は運命の女神を憎み続けていましたが、ある結婚式に参列した時に、京都のお坊さんがこんな話をしていました。

「仏縁に導かれたお二人だから、きっといい夫婦になられるでしょう。けれども、好むと好まざるとに関わらず、これからお二人には艱難辛苦(かんなんしんく)が押し寄せてきます。それを乗り越えたら。きっといい人生が送れるでしょう。人生にはいろんなことが起こりますけど、無駄は一つもありませんよ」と。

矢野さんがその言葉を聞いたときは、「何を言うんだ。俺の人生、無駄しかないじゃないか」と腹が立ったのですが、ふと考えてみると、「仏さんはこいつは見どころがあると思って、人の何倍も艱難辛苦を与えてくれたんじゃないか。運が悪いと思い続けてきたきたけど、もしかすると運がいいんじゃないか。」

そう思うようになってから少しづつ心のもやもやが晴れて、善いことが起こるようになったそうです。