突然の事故により車椅子生活を余儀なくされ、サッカーへの道を閉ざされた元jリーガーの京谷和幸さんは、その後車椅子バスケットで4大会連続で日本代表としてパラリンピックに出場しました。

そんな京谷さんが、突然の事故から立ち直ったきっかけを『致知』の中で話されています。

事故に遭われたのは、1993年の11月28日のことでした。

実はその日は結婚式の衣装合わせの前夜だったんです。

仲間の家に遊びに行った帰り、明け方の4時くらいでしたか、スピードも出していて、油断をしたんでしょうね。

脇から車が出てきて、ハンドルを切って避けたら、そのまま電柱に激突してしまった。

すぐに病院に運ばれたものの外傷は全然なく、警察の方が来た時も立って会話したことは覚えているんです。

ただ、そこからは記憶が断片的にしか残っていなくて、気づいたときにはもう集中治療室のベッドに寝ていました。

目を覚ますと、身内の方の連絡先を教えてくださいと言われたので、北海道なのですぐには来れないからと、婚約者だった妻の連絡先を教え、妻が駆けつけてくる。

それで事故から数日後、まだ私が車椅子生活になることなど何も知らされていない時に、面会にやってきた妻が突然「入籍しよう」って言ってきたんです。

遅かれ早かれ入籍するつもりではいたんですが、なぜこの状況で言うのかなっていう疑問はありました。

ただ、その考えを伝えると、妻はいままで見せたこともない必死の形相をして「今じゃなきゃだめなの!」って言うんです。

彼女が望んでいるならいいかという感じで、私は寝たまま婚姻届けにサインをして、事故から11日目に妻と入籍したんです。

入籍後、しばらく経っても足が動かなくて、私は日に日に不安と焦りでいっぱいになっていきました。

そういう中で、ある日、妻がベッド脇のサイドボードの上に日記を置き忘れていることに気づいたんです。

なんとなくその日の日記をめくってみると、「脊髄神経がだめになっている」「二週間経っても感覚が戻らないと車椅子の生活になると先生に言われた」などと絶望的なことばかり書かれてあって、私はこの日記で初めて自分の足の事実を知ったんです。

先生から正式にそのことを告げられたのは、それから数日後です。

宣告を受けた時、私は「はい、わかりました」とだけ答えました。

それまで他人に自分の弱さを見られるのを嫌い、いつも意地と見栄を張って生きてきましたので、宣告によってうろたえた姿を見られたくなかったんです。

それでも宣告された日の夜、最後の最後で、いろんなことがフラッシュバックしてきましてね。

深夜の病室で枕に顔を押し当て声を殺して泣くわけです。

サッカーが人生のすべてでしたから、これからの人生どうしようか、どうやって生きていこうかって・・・

だけど、その時ハッと気づいたんです。

自分は1人じゃないと。

それまではの私は、サッカー選手になれたのも自分の才能だと思っていましたし、どちらかといえば自分のためだけに生きてきた人間だったのですが、その時にはじめて、車椅子になることを知りながら入籍を決断してくれた妻のためにも、この状況を変えていかなきゃと思えたんです。

たぶん、妻がいなければそういう思いにはならなかったと思います。

別にサッカーを諦める、車椅子になることを受け入れたわけではないですよ。

でも、これから二人でやっていくためには、自分がいまやるべきことは何だろうかと考えた時に、それは妻のためにリハビリを頑張って1日でも早く退院することだと思ったんです。

妻のために”。

ただそれだけが当時の私の生きる力でしたね。

(引用:『致知』2017年3月号「逆境を乗り越えた先に見えたもの」より)

京谷さんの話を読んで、天は乗り越えられない試練は与えないこと、試練を乗り越えることで人は磨かれ成長すること、他人のために思い行動することには必ず天からの支援を得られることなどを、改めて学ぶことができました。