江戸時代の名僧といわれる盤珪(ばんけい)国師は、現在の姫路市網干にある浜田というところで生まれました。

盤珪禅師が12歳の時に、寺小屋で勉強をはじめました。

そこで四書五経の一つである「大学」という書物に書かれている孔子の言葉に接します。

孔子の学問の目的は、明徳を明らかにすることにあり、民をして親しむことにあり、至善に止まることにある、と書かれていたのです。

その「明徳を明らかにする」ということばに大きなショックを受けました。

「明徳の徳とは、道徳の徳であり、人間はだれでも生まれたときからきれいな道徳をもっている。

みんなそれに気づかないだけなのだ。

だから、人間が本来持っているその明徳をはっきり自覚することが学問である」と、孔子は述べています。

ところが、12歳の盤珪禅師にはそれがわからりませんでした。

人間はだれでも明徳というきれいな心を備えているというが、私にはそんなものはないじゃないか。

毎日、川へ行っては魚を取ったり、山へ入っては虫を取ったり、蛇を捕まえたり、殺生をしている。

また、友達相手に喧嘩もよくする。

親からも兄からも叱られてばかりいるガキ大将のこの私に、明徳などあるはずがない。

どこにもないじゃないか。

ないと思うのに、それでもあるというのなら、いったいどこにあるのだろう。

明徳とは、そもそもどんな心のことなのだろうと、盤珪禅師は疑問に思って考え込みました。

考えても考えてもわからない盤珪禅師は、寺小屋の先生に尋ねましたが、先生は答えられませんでした。

それから、盤珪禅師はあちこちの先生に同じことを聞いて回りましたが、納得のいく答えを教えてくれる先生はいませんでした。

盤珪禅師は「明徳とは何か」という疑問に答えてくれる学者がどこにもいないと知って、今度はお坊さんを訪ねました。

ちょうど、近くに西方寺という浄土宗のお寺があったので、まずそこに行きました。

すると、「念仏を称(とな)えるように」といわれたので、一所懸命念仏を称えました。

しかし、いくら念仏を称えても、疑問は解決しません。

そこで、次に真言宗のお寺を訪ねました。

ここでは「修行せよ」といわれたので、寒中に水を被(かぶ)ったり、1週間断食をしたり、いろいろ修行したけれども、やはりわかりません。

次に、禅宗のお寺を訪ねましたが、そこでもはっきり説明してくれる人はいませんでした。

ただ、「座禅すればわかるだろう」といわれたので、盤珪禅師は山へ入ってひとりで座禅をしました。

何も食べずに山中の岩の上で、1週間座禅を続けました。

空腹と睡魔のために岩から転げ落ちるほど座禅をし、しまいには痔が悪くなって血が出るのもかまわず、薄い紙を尻に当てるだけで、なお座り続けました。

こうして12の時から17の年まで6年もの間、盤珪禅師は開けても暮れても、「明徳とは何か。私のどこに明徳があるのか」という疑問に取りつかれて、その答えを求めて苦しい煩悶の日々を送りました。

ちょうど、その頃、「播州の赤穂に雲甫という偉い和尚がいるから、その方にあって聞いてこい」とある先生が教えてくれました。

盤珪禅師はさっそく故郷の網干から赤穂へ向かいました。

そして、雲甫和尚に会いました。

「明徳とは何でしょうか。私にも明徳がありますか」

「ある」

「どこにあるのでしょうか」

「明徳とは形のないもの、姿のないものだから、どこと言葉で示すわけにはいかない。お前が自分で悟らなければならない」

「どうすれば悟れますか」

「やはり座禅をすることだ。静かに座って自分の内面を見つめたらよい」

こういう問答の末、雲甫和尚に頭を剃ってもらい、17歳にしてついに盤珪禅師は出家しました。

その後さらに10年間、西は長崎の果てから東は美濃尾張まで修行の旅を続け、名僧という名僧を訪ねました。

しかし、それでもなお、明徳とは何かわからなかったのです。

そこで、再び赤穂に帰ってきた盤珪禅師は、二畳敷きの小屋を建ててもらい、そこへ座布団1枚だけもって座禅三昧に入りました。

明徳がわからなければ、人生の目的はない。

人生の意義もない。

生きていても仕方がない。

明徳がわかるまで、たとえ死ぬことになろうと、ここから1歩も出ないと覚悟を決めました。

しかし、薄暗い小さな部屋にこもって、何日、何十日と座禅を続けているうちに、盤珪禅師はとうとう胸を病んでしまいました。

食べ物は窓から差し入れるわずかな量で、運動も過度に不足します。

また、昼夜の別なく、横にもならずに座禅を続けていたので、睡眠不足にもなります。

周囲の人が盤珪禅師の身を案じて忠告しても、盤珪禅師の覚悟は固く、決して小屋から出ようとはしませんでした。

そして、ある日のこと。

壁に向かって座禅をしながら、プッと痰を吐きました。

血痰でした。

熱を帯びて、うさぎの糞のように固まっていたので、壁にべたっとくっつかず、コロコロと痰が下へ転がり落ちていきます。

たったそれだけのことでしたが、その瞬間「明徳とは何か」がわかったのです。

悟りを開いた盤珪禅師は、ようやく小屋から出てきました。

そして、小屋の下を流れる小川の水で久しぶりに顔を洗っていると、庭の前に咲いていた梅の花の香りが漂ってきました。

その香りをかいだとき、言いようのない歓喜が沸き上がってきて、うれしくてうれしくてなりません。

「ああ、これだ、これだ。この心が明徳だったんだな」

と心理を体得した感動を初めて味わいました。

盤珪禅師27歳の時のことでした。

その後、病気は回復してから盤珪禅師は再び旅に出ました。

自分の悟りに間違いがないか、天下の名僧に会って証明してもらうためです。

乞食をしながら、長崎に中国から来た名僧がいると聞けば長崎へ、美濃に愚堂和尚という名僧がいると聞けば、すぐに美濃へ訪ねていきました。

そして、自分の悟りに間違いがないことをはっきり自覚し、確信をもって人々に法を説きはじめたのが、37歳のときでした。

盤珪禅師は、仏教の学問をしたわけではありません。

仏教の難しいことばも知りません。

経典や祖師のことばを提唱せず、公案も使わずに、いま生きている自分の体験を通して、自分のことばでやさしく法を説いたのです。

ですから、学問を必要としなかった農民や一般の人びとによくわかり、いつでもどこでもお堂いっぱい、縁側まではみ出すほど多くの聴衆が集まったということです。

そこで、「人間の心とは、鏡のようにきれいなものですぞ」と盤珪禅師はよく話されたそうです。

(参照:「自己を見つめる-ほんとうの自分とは何か-」山田無文)

盤珪禅師は、12歳の時から明徳とは何かを一途に求め続け、27歳で明徳が何かわかるまでに15年、37歳で明徳が何かということに確信を持つまでに更に10年、合計で25年の月日を費やしました。

盤珪禅師の愚直なまでに答えを求め続ける姿勢には、ただただ頭が下がる思いです。