永平寺を開堂した道元の生き様
永平寺を開堂した道元が生まれたのは、1200年、父親は時の権力者・久我通親(みちちか)、母親は藤原氏一族の息女・伊氏(いし)でした。
高貴な家柄に生まれた道元が13歳で出家したのは、3歳で父親を、8歳で母親を相次いで亡くしたことが引き金になりました。
その後、異母兄の久我通具(みちとも)のもとで育てられますが、両親を亡くしたことによる無常観をぬぐい切れなかった道元は、周囲の反対を押し切って比叡山の天台宗のもとで剃髪、得度し、天台僧としての第一歩を踏み出しました。
そして、国内での修行ののち道元が23歳の時に、当時の中国(宋)にわたります。
宋に渡った道元は、そこで「嗣書(ししょ)」という師から弟子へと伝わる正伝の仏法の悟りの証明書を見て、仏祖の命脈が一貫して流れていることに感動し、自分もまた正伝の仏法を継承することが自らの使命であると確信します。
以来、道元は、正伝の仏法を受け継ぐ正師を求めて、宋で旅を続けます。
入宋してから2年を経ても一向に正師と出逢えない道元は、意気消沈して天童山に戻る途中で、ある老僧から如浄(にょじょう)という素晴らしい禅僧が天童山にいると教えられ如浄のもとへ向かいます。
1225年、道元が如浄に会うと、道元は瞬時にこの人こそ正師だと思い定め、如浄もまた、道元の非凡な器量を見抜き「仏仏祖祖の面授の法がなったな」と穏やかな声で言うとともに「希代、不思議な機縁」と大いに満足したと言います。
面授とは、師と弟子が直接相見え、仏祖正伝の仏法が伝えられることを意味します。
中国曹洞宗の法を継いでいた如浄は、既に65歳ながらも、その日常は修行僧とともに坐禅(ざぜん)を常としていました。
道元もまた、如浄のもと、只管打座(しかんだざ)、ただひたすらに坐禅に励む日々を送り始めました。
如浄から坐禅について「参禅とは身心脱落なのだ。坐禅は自分の身体と心のすべての束縛から解き放った状態を示している。それゆえ、ことさら焼香、礼拝、念仏、看経などにとらわれず、ただ坐禅し身心脱落せよ」と教えを受け、たとえ病に倒れて死すとも悔いずの決意で参禅に徹していくのです。
ある明け方の坐禅でのこと。
道元のすぐ隣で居眠りをしていた修行僧に向かい、「坐禅は一切の執着を捨ててしなければならないのに、居眠りをするとは何事か」と大喝(たいかつ)した如浄が、履いていた木靴で修行僧を打ち据えるという出来事がありました。
この時、如浄の一喝が坐禅に没頭していた道元の身体を突き抜けると、道元は豁然(かつぜん)と大悟(だいご)したのです。
夜明けを待って如浄を訪ね、自らがとらわれのない世界に至った心境を報告すると、如浄は頷きながら「身心脱落、脱落身心」と述べ、身心が脱落したことも忘れてしまうよう道元に教示したと言います。
道元26歳のことでした。
その後も如浄のもとで修業を積んだ道元は、1227年に悟りの証明である「嗣書」を相承し、釈尊から数えて52代の祖師となり、4年半ぶりに帰国し、京都洛南の地に我が国最初の中国様式の僧堂を持つ禅寺興聖寺を開創しました。
道元が越前に永平寺を開堂したのは、1244年のことです。
(参照:『致知』2017年7月号より)
道元にとっての最大の試練は、幼い時に両親を亡くしてしまうという辛い出来事だったと思われます。
そして、その試練を乗り越えるために仏門の世界に入り、見事に悟りを開いていきます。
しかし、修行して悟りを開いてもそれで終わりではなく、さらにまた修行をして、悟りを開くという連環を繰り返していくのです。