”北の迎賓館”の異名を取る札幌の名店「すし善」の嶋宮社長がすし店を営むようになったきっかけには、以下のような経緯がありました。

嶋宮さんは四人兄弟で、母親は家計を支えるために、小樽の港で魚を仕入れて海産物に加工して売っていました。

父親は漁師でしたが、母親の稼ぎで商売に手を出しては失敗を繰り返し、揚げ句の果てに嶋宮さんが中学2年の時に倒産して、住む家もなくなるほど苦しい状況に追い込まれました。

嶋宮さんは長男で、下に弟と妹が3人いたので、家計を助けるために印刷屋で配達のアルバイトをしたりしました。

そして中学を卒業すると同時に、15歳で単身で東京に働きに出ました。

両親の反対を押し切って、半ズボンに下駄をはいて飛び出しましたが、青函連絡船に乗ってこれでみんなと別れるのかと思うと急に寂しくなって、汽笛が鳴り響くとともに船内に「蛍の光」が流れると声を出して泣いたそうです。

母親の取引先だった仲買人が築地にいて、その人を訪ねていきますが音信不通で連絡が取れません。

途方に暮れていた時に、強面(こわもて)の男性に声を掛けられて、事情を説明すると「俺のところに泊めてやる」と言うので、お世話になることにしました。

その男性はショバ屋といって、当時非常に混雑していた列車の席を確保して、乗客に高値で売るという非合法の商売をしていました。

10日ほどその仕事を手伝っていましたが、ある時突然「おまえはこんな仕事をする男じゃない。何かやりたいことはないか」と言われ、嶋宮さんは特にやりたいこともなく家に帰るわけにはいかなかったので、とにかく住み込みで働けるところなら何でもいいと答えると、銀座のすし屋を紹介してくれました。

嶋宮さんの仕事は、掃除と出前の二つだけでした。

朝はまず店の前の道路や玄関、店内をきれいに掃き、カウンターを磨く。

営業中はお茶やおしぼりを出したり、出前に行ったりして、閉店後は調理場の後片付けをする。

そういう生活が2年2か月続きましたが、18歳の時にホームシックにかかってしまい、書き置きをして夜逃げをしました。

北海道に戻りましたが、小樽には帰れず、札幌の寿司屋で住み込みの募集を探していたら、たまたま新聞に求人が掲載されていました。

月給が3千円で、その当時の大卒の初任給が1万円くらいでしたが、それでも食事を食べさせてもらって、仕事を習って、お金をいただける、こんないい仕事はないと思ったそうです。

そこから28歳で独立するまで、札幌と銀座で修行を積みました。

寿司屋になりたくてなったのではなく、貧しくて生活をしていくために住み込んだ先がたまたま寿司屋だったというわけです。

それが気が付けば一生の仕事になっていました。

目の前のことに一所懸命に取り組んだ結果が、一生の生業になっていたということです。

(引用:人間学を学ぶ月刊誌『致知』2016年11月号の対談「わが闘魂の人生」より)