元Jリーガーの京谷和彦さんが、車椅子での生活を余儀なくされた経緯は昨日記載しましたが、その後車椅子バスケットを始めるまでには次のような経緯があったそうです。

本気で車椅子バスケットをやろうと思うまでには、三つの出来事との出会いがありました。

その一つが室蘭の友人を招いて結婚披露パーティーを開いた時の出来事なんです。

私が車椅子に乗って各テーブルを回っていると、「期待していたのに、残念だったな」ってみんな同じことを言うんですよ。

どのテーブルに行ってもそういわれるので、だんだん腹が立ってきた私は、パーティーの最後の挨拶で「始めたばかりのバスケットを頑張って、次のパラリンピックを目指しますので応援よろしくお願いします!」と宣言してしまったんです。

それでもう後に引けなくなってしまった。

二つ目は、その半年後参加した同級生でJリーガーの藤田俊哉選手の結婚式での出来事です。

同じテーブルを囲んだのは、かつてともにプレーした選手たちだったんですが、彼らと一緒にやっていたことに誇りを覚えながらも、いまの自分には何もないじゃないかという悔しさというか、恥ずかしさが込み上げてきたんです。

その時に、車椅子バスケットを続けて、パラリンピックという最高の舞台で日本代表として「日の丸」を背負って戦うことができたなら、彼らと対等じゃないか。彼らに負けたくないという思いが芽生えてきたんです。

それから、「日の丸」をつけてプレーすることの誇りを再認識し、より一層車椅子バスケットに打ち込むようになっていきました。

そして、三つ目の最大の出来事が、人工授精で授かった娘の誕生でした。

車椅子の父親の家庭に生まれたこの子は、もしかしたらいじめに遭うかもしれない。

自分はこの子が誇りに思えるような父親になりたい。

その父親としての思いが最後に背中を押してくれ、パラリンピックへの夢に向かって私を一気に加速させてくれたんです。

妻との入籍の時も1人じゃないと気づけましたし、娘が生まれた時も誇れる父親になりたいという思いが力になりました。

守るものができ、誰かのために行動することで、自分自身こんなにも強くなれるんだということは、事故後に実感できたことですね。

そうして死に物狂いでリハビリと練習に打ち込み、2000年のシドニー、2004年のアテネ、2008年の北京、2012年のロンドンと、4大会連続でパラリンピックに出場することができました。

妻との入籍や結婚式での出来事、娘の誕生など、一つでも欠けていたら、おそらく4大会までは続けられなかったと思います。

(引用:『致知』2017年3月号「逆境を乗り越えた先に見えたもの」より)

そうなんです。自分のためではなく、家族、友人誰でもいいんですが誰か他の人のために行動することで、人間はとてつもない力を発揮することができるのです。