フランス料理界の巨匠で「ラ・ロシェル」店主の酒井宏行さんは、中学校を卒業し、16歳の時に故郷の鹿児島を離れ、大阪の仕出し弁当屋さんに住み込みで働き始めました。

毎朝、3時頃に起床し、お米を研いだり竈(かまど)に火を起こしたりした後、昼前に自転車に弁当を積んで配達に出かけました。

そういう日々を続けるうちに、こんなことをしていて果たして料理人になれるのだろうか、という疑問が湧いてきました。

ちょうどその時、ある先輩が「お前料理人になるんだったら、ここにいても絶対ダメだよ。俺がフランス料理のシェフを知っているから紹介してやる」と言ってくれて、ホテル新大阪のレストランに勤めることができたのです。

かくして料理人の第一歩を踏み出したわけですが、当時の料理人の世界は丁稚(でっち)奉公と同じで、親方や先輩が白と言えば明らかに黒い物も白になる時代でした。

そんな時代でしたので、入ってすぐに料理の仕事をさせてもらえたわけではありません。

酒井さんはまず親方の靴磨きから始めました。

冬場は先輩たちが起きてくる前に調理場を暖めておかなければなりません。

当時は石炭ストーブの時代で、暖めるのに時間がかかる上に、真冬の早朝ともなると、なかなか石炭に火が付かないため、前日の晩にかまどの中の灰を掻(か)き出し、翌日使用する石炭を入れて温めておきました。

そうやって少しでも早く調理場が暖まるように準備していました。

また、調理場では自分の仕事に集中しつつ、常に先輩の動きを見て先読みする。

ボウルを欲しそうにしているなと思ったら、サッとすぐに持っていく。

そこで要領よく立ち回ることで、先輩たちから可愛がられて、「おまえ、これやっておけ」と新たな仕事を与えてもらえるようになりました。

そして、もう一つ心がけていたのが、「その日に与えられた仕事はその日のうちにやっておく。先延ばししない」ということです。

例えば、ソースを仕込むとします。

あと、2~3時間煮込まなければいい味が出ないという場合、たとえ日付が変わってしまう時間だとしても、我慢して居残って最後まで仕上げました。

まだ味が出ていないのに、もう時間だからといって仕事を放って帰ることはしませんでした。

自宅は二畳1間のアパートで、風呂なしトイレは共同。

毎月の給料から家賃と銭湯代を引くと、ほとんどお金は残りません。

給料日近くになると銭湯代すらなくなってしまい、店の洗い場で体をふいて凌(しの)いだこともしょっちゅうです。

外食したり遊びに行ったりする余裕など皆無(かいむ)でした。

仕事を終えて帰宅するのは深夜12時ごろ。

そこから読書や料理の基礎練習を行っていたため、睡眠時間は4~5時間で、朝5~6時には起きて出勤する。

いま、振り返ってみると、若い時に辛い思いや苦労したことで、多少のことではへこたれない忍耐力、精神力が身についたと感じています。

このような修行時代を過ごしたことが貴重な体験でした。

(引用:『致知』11月号)