終戦直後、フジ住宅の創業者今井光郎さんは大阪で6人兄弟の4人目として生まれました。

もともとは裕福な家でしたが、戦争で財産のすべてをなくしてしまいます。

戦後は仕事もなく、今井さんの父親は定職につけませんでした。

そんな状態ですから、今井さんの家にはいつもお金がありませんでした。

ある夜、こんなことがあったそうです。

今井さんがまだ5歳のとき、眠っていると隣の部屋から話し声が聞こえてきます。

今井さんが耳をそばだてると、母親のすすり泣きでした。

家族が食べていけないので、中学3年生だった長兄に学校を辞めて働きに出てほしいと懇願していたのです。

長兄は結局、中学を辞めて鉄工所に住み込みで働き始めました。

月1回の休みになると給料を全部家に持ち帰り、母親には巻き寿司を、今井さんたちには駄菓子を買ってきてくれました。

そんな状況でしたから、今井さんの上の兄妹たちは皆、高校には進学できませんでした。

今井さん自身も家の手伝いが日課でした。

学校が終わると、八百屋を始めた次兄のもとに駆けつけて野菜が山と積まれたリヤカーを押す。

そんな子供時代でした。

貧しさから抜け出したい。

中学時代はその思いから、一流高校、一流大学に行き、一流企業に入ることが夢でした。

幸いにも高校進学は許されましたが、通った先は工業高校。

卒業後、すぐに就職することが絶対条件でした。

高校を出た後は、繊維会社の設計や航空管制官などの仕事を経験しましたが、転機となったのは24歳のときです。

当時、今井さんは結婚もして、ある不動産会社に就職しました。

そして時を同じくして、長兄が結核にかかってしまったのです。

その頃、結核といえば大病でした。

多額の入院費がかかるだけでなく、家計を支えていた長兄が倒れたことで、代わって今井さんが家族の生活を背負うことになりました。

一番下の妹はまだ高校生。

なんとしても卒業させなくてはなりません。

就職した不動産会社は入社3か月までは固定給で、その後に歩合給となる予定でした。

今井さんはまだ入社して3週間足らず。

にもかかわらず、営業会議の席上、すぐに営業の第一線に出してもらえるよう願い出ました。

今井さんはとにかくお金が必要だったのです。

内気な今井さんは営業に向かいと、友達には言われました。

正直、今井さん自身もそう思っていましたが、悩む暇などありませんでした。

今井さんは人の倍働くことに決めました。

帰宅は深夜12時過ぎ。

休日も取らず、まさに寝食を忘れて仕事に打ち込みました。

そして気がつけば、営業に自信のなかった今井さんが、常にトップセールスをあげ続けていました。

もちろん、それは今井さん一人の力ではありませんでした。

夜更けまでチラシを作ってくれた奥さん。

奥さんが後に笑いながら、「生活が苦しいとき、こっそり嫁入り道具の着物を質に入れた」と話してくれたときは、涙がこぼれ落ちそうになりました。

家族のためだから、がんばれた。

家族がいたから、がんばれた。

今井さんが会社を興すなど、思いもよりませんでした。

けれども、家族という存在があったからこそ、今井さんはここまで歩いてこれました。

昭和48年、今井さんはフジ住宅を創業しました。

不動産会社の営業マンとして、たくさんのお客さんに家を売り、仕事には大きな自信がつきました。

しかし、その自信がフジ住宅を生んだわけではありません。

フジ住宅を生んだのは、悔しさです。

当時の住宅業界は品質責任についての意識が非常に低く、販売後にトラブルが発生しても、なかなか無償修理を受け付けませんでした。

しかし、今井さんには売った責任があります。

1~2万円程度の修理代であれば、自分の給料から出しました。

ただ、それが何十万もの金額となっては、とても払うことができません。

それは結局、今井さんを信頼してくれたお客さんへの裏切りです。

その悔しさこそが、今井さんの創業の原点でした。

家とは、家族をはぐくむ揺りかごなのだと今井さんは思っています。

安心して暮らせる家があるからこそ、本気でけんかもできます。

腹の底から笑いあえます。

そうやって家族がだんだん家族になっていく。

それが本当の家族ではないでしょうか。

家族をはぐくむ家を届けたくて、今井さんは会社を作りました。

それがフジ住宅です。

(参照:『致知』2月号より)

谷が深ければ深いほど、そのあとに現れる山の頂は高くなるということです。

大きな逆境を乗り越えた先には、大きな成功が待っているということです。