エーデルワイス創業者 比屋根毅氏の生き方
洋菓子メーカー・エーデルワイスの創業者比屋根毅氏は、スイーツ業界の父と呼ばれています。
そんな比屋根さんが『致知』という雑誌で、ご自身の体験をもとに「20代をどう生きるか」を、次のように語っています。
私は15歳で故郷の石垣島を飛び出し、沖縄本島に行き、17歳で本土に来て、22歳でヨーロッパに渡りました。
その後、全国各地の名店で修行を積み、29歳の時、兵庫県尼崎市にある立花商店街の外れで、たった7坪の洋菓子店をオープンしました。
独立に踏み切ったのは、その当時勤めていた大賀製菓の社長が亡くなったことがきっかけでした。
直後に開催された全国菓子大博覧会で洋風工芸文化大賞を受賞したこともあり、6~7か所の店から破格の好条件でスカウトがあったものの、すべて断った上で決心しました。
とは言え、大博覧会に出展する作品づくりに貯金をほとんど費やしたため、開業資金は全くありませんでした。
毎日銀行に通い、なんとか270万円を借りることができ、商店街の外れの田んぼに囲まれた場所にある7坪の店を買い取りました。
オーブンもミキサーも冷蔵庫もすべて中古品を譲り受け、壊れているものは自分で修理して使いました。
お菓子を並べるショーウィンドーに至っては、魚屋さんからタダでもらってきたので、魚の生臭さが染みついていました。
臭いが取れるまで何度も洗い直しました。
今となっては、そこまでしてよくやったなと思います。
スタッフは、私と妻と前職時代の部下1人の計3名。
それに対して、1日に来店されるお客様は3~5名くらい。
ほとんど売れない日々が半年間続きました。
そんな中、借金をすべて肩代わりしてあげるからうちに来てくれ、という話もたくさんありました。
これでは、生計を立てられない。
もうダメだ。
店を閉めよう・・・。
その思いをある問屋さんに打ち明けると、「いや、僕が材料を持っていきますから、もう一度頑張ってください。」と言うのです。
私は意気に感じて、その材料を使ってありったけのお菓子をつくりました。
そして、最後の賭けに出たのです。
賭けとは、空手道場の弟子たちを集めて、お菓子を全部自転車に乗せ、手当たり次第にタダで配るというものです。
味には絶対の自信があったため、「食べておいしかったら店まで買いに来てください」と言って回りました。
すると、どうでしょう。
翌朝シャッターを叩く音で目が覚め、外に出てみると、店の前には何人ものお客様が並んでいたのです。
近くの大企業の社長が食べて気に入ってくれて、秘書から注文が来たり、お寺の住職が檀家に配ってくれたり、あるいは市場のおばさんたちの間で話題になって買いに来てくれたり、そこからてんてこ舞いの忙しさになりました。
まさに人生無一事、何もないところからすべては始まります。
ぎりぎりの状況で開き直って捨て身になると、いままで見えなかったものが見えてくるし、そこに神様の助けがあるように思います。
私は宗教家ではないけれども、いま振り返ると、つくづくそう実感します。
20代を生きる上で、大切な要素はたくさんありますが、特にお伝えしたいのは「時間を意識する」ことです。
明日もあると思って逃げたら絶対にダメです。
今日しかない、今しかない、このチャンスを逃したらもう後がない。
そうやって自分自身を追い込みながら、常にプレッシャーと闘っていると、不思議なくらい物事は好転していきます。
「厳しさの中にこそ成長がある」
これは私がいつも社員に伝えている言葉です。
何回も何回も壁にぶつかりながら、それを乗り越えた時に本当の道が開けます。
そして、簡単に破れる壁ではなく、その壁が厚ければ厚いほど、大きな喜びや成長があると思います。
だからこそ、大きな夢を持ち、困難や逆境に直面しても、「この世の中に不可能はないんだ」という精神で、諦めずにチャレンジしていただきたい。
私は独立して3~4年後には、「必ず100億円企業にする」と宣言していました。
当時、お菓子業界で100億円企業はまれで、誰もが私の言葉を笑って聞いていました。
しかし、私は不可能を可能にするために絶えず考え、チャレンジし続けたことで、30年の歳月を要し、2002年にその夢を実現できました。
今年80歳を迎えるにあたり、振り返ると、20代の頃はうまくいかなかったこともたくさんあります。
しかし、あの時の失敗や無謀なチャレンジ、思い切った決断がなければ、今はないとつくづく思います。
(参考文献:『致知』2017年4月号)
この話から、私は次のような言葉を思い起こしました。
天(神)は、乗り越えられない試練は与えない。
艱難汝を玉にす
幸運の女神には後ろ髪がない。
人生の土壇場で奇跡のようなことが起きることがりますが、これも人智を超越した天(神)の配慮だと思います。