ものまねタレント「コロッケ」さんが芸能界入りするまでの歩み

ものまねタレントのコロッケさんは、昭和35年、熊本市で生まれました。

家族はお母さんとお姉さんの2人。

遊び人だったお父さんはコロッケさんが物心ついた頃には家に寄り付かなくなっていて、行方不明同然でした。

お母さんは看護助手をしながらコロッケさんたちを育ててくれましたが、生活は楽ではありませんでした。

小さな二軒長屋に住み、食事もとてもシンプルでした。

おかずが三食とも「もやし」だったり、お米が無くて「あられ」だけが食卓に出たりということもありました。

そんな時、お母さんは「今日のご飯は、あられたい!」と明るく言います。

それをコロッケさん達も喜んで食べました。

「困ったとき、どうしようかと3日は考える。

でも4日目には悩むのはやめて、1歩前に進むことを考える。

悩んだってしょんなか(しょうがない)でしょう」

これが、お母さんの哲学でした。

お母さんは無類の綺麗好きでした。

古くても家の中はいつもピカピカに磨き上げられ、コロッケさんたちは遊んで帰ってくると、土間で来ている服を脱いで下着姿で部屋に上がります。

お金がなくても、コロッケさんたちは毎日必ず銭湯に行きました。

着ている服はボロボロでも清潔にしていさえすれば、恥ずかしくない、という考えだったのです。

いつの頃からか、コロッケさんの家の柱にはお母さんの字が書かかれた紙が貼ってありました。

あせるな

おこるな

いばるな

くさるな

まけるな

子どものコロッケさんには意味が分からず、「あおいくま」と頭文字を縦に読んでしまいましたが、お母さんは笑いながら「この言葉だけは覚えておきなさい。これを覚えておけば大丈夫だから」と教えてくれました。

それからというもの、コロッケさんは事あるごとにこの「あおいくま」を思い出し、心の支えとするようになりました。

コロッケさんが中耳炎(ちゅうじえん)になったのは小学校2年の時でした。

しかし、お母さんにそのことを言い出せませんでした。

お金がかかるから我慢しようと思ったのです。

お姉さんとコロッケさんの間には、お母さんに気を遣わせてはいけないという暗黙のルールがありました。

お金が必要なら自分でアルバイトをして稼ぐ。

コロッケさんはそれを当然のことと考えていたからです。

実際、中学、高校と新聞配達をしながらお小遣いを貯めていました。

耳の痛みはその後も時々起こり、耳垂れが出ることもありましたが、我慢できないほどではなかったので、そのままにしておきました。

ところが、中学2年の時、突然耳鳴りがして、右耳に激痛が走りました。

コロッケさんは耐えられずに、その場に倒れ込んでしまいました。

病名は真珠腫(しんじゅしゅ)性中耳炎で、即入院でした。

しかし、そんな大変な時でもコロッケさんは「お母さんに悪い」と、そのことばかりを考えていました。

お母さんは「大丈夫ね?」と声を掛けてくれましたが、その表情はとても辛そうでした。

右耳が聞こえないと宣告されたとき、コロッケさんが落ち込んだのはほんの一瞬でした。

「左耳が聞こえるからいいや」とすぐに気持ちを切り替えていました。

両耳が聞こえることを期待するのではなく、片耳になってどうすべきかを考えていたのです。

自分から先回りして相手の右側に座る、それもふざけたりしながら相手に気づかれないように自然な形で振る舞う、という技術をいつの間にか身に着けていきました。

この時の呼吸は、その後、お笑いの世界に入ってからも大変役に立ちました。

テレビ番組を見る中でものまねに強い関心を抱くようになったのは、中学生になった頃でした。

もともとおとなしくクラスでも目立つことのなかったコロッケさんですが、中学3年の時に片思いの女の子ができて、遠足のバスで彼女の大好きな郷ひろみさんになり切って歌ったところ、皆が驚いて注目してくれました。

自分の殻を破り、弾けることを覚えたのは、この時です。

高校2年の時には、家族に内緒で近くのスナックにアルバイトに行くようになりました。

ママにレコードをかけてもらい、お客さんの前でものまねを披露するためです。

幸いコロッケさんのものまねは大人気で、噂は繁華街まで広まり、いろいろな店からお呼びがかかるようになりました。

高校を出る頃には、熊本の夜の世界で知らない人はいないくらいになっていました。

高校を出て芸能界入りを模索していた頃、知人を通して赤塚不士夫さん、タモリさん、所ジョージさんにものまねを見てもらうチャンスがやってきました。

コロッケさんにとって初めての上京です。

3人ともニコニコ笑って見てくれましたが、最後に言われた「似ているけど、面白くないよね」というひと言は、さすがにグサリと胸に突き刺さりました。

まさに打ちのめされたという感じでした。

しかし、その言葉は逆にコロッケさんを奮い立たせました。

面白いものまねは何だろうと考える中で、コロッケさんでも納得できる芸が出来上がっていきました。

「やれる」と確信したコロッケさんは、荷物を持って上京することを決意します。

問題はそのことをいつ、どのようなタイミングでお母さんに伝えるかでした。

実はお母さんとお姉さんは、コロッケさんが夜の世界でアルバイトをしていることを上京する直前まで知りませんでした。

お母さんは自分で小遣いを稼ぐことも、友達の部屋を間借りして生活することも認めてくれていました。

しかし、まさか息子が本気で芸能界に行くことになるとは思ってもみませんでした。

「僕、きょう東京に行くけん。

もう飛行機のチケットも取ってあるたい」

東京行きの荷物を手に、久々に自宅に帰ったコロッケさんは、意を決してそう一息で言い切りました。

「あんた、まだそげん夢みたいなことば言うて!

芸能界はあんたが行ってどうにかできるほど、甘か世界じゃなか!」

予想通りお母さんはすごい剣幕でコロッケさんを叱りつけました。

しかし、決心は変わりません。

「いや、僕は芸能人になる」

と怒鳴り返し、お母さんの声を振り切るようにして外に飛び出していました。

歩きながら涙があふれ、信号機も見えませんでした。

これが19歳になったコロッケさんの、生まれて初めてのお母さんに対する反抗でした。

上京して転がり込んだのは、池袋の近くにある先輩の下宿でした。

まずは六本木にある人気のショーパブに乗り込んでものまねを見てもらう作戦でした。

結果は合格。

こうして東京の生活は何とかスタートを切ったものの、肝心の芸能界への道はなかなか開かれませんでした。

気持ちばかりが焦り、毎日悶々(もんもん)とする中、いつも頭に浮かぶのが、黄ばんだ紙に書かれた「あおいくま」の言葉でした。

熊本にいた時は、あまり意識することがなかった「あおいくま」が、お母さんの笑顔とともに懐かしく思い出だされて、幾度も涙がこみあげそうになりました。

「あせるなよ、くさるなよ」、コロッケさんは自分にそう言い聞かせていました。

小さなアパートに移ってからも、不安定な生活は相変わらずでした。

その頃お世話になっていた質屋さんに後から聞いた話では、年の瀬にこたつやテレビ、大切にしていたウォークマンまで質に入れていたそうです。

コロッケさんが芸能界に入るきっかけとなったのは、上京して半年後の『お笑いスター誕生!』というテレビ番組でした。

この番組で銀賞を獲得したことでテレビの仕事が増え、昭和62年の『ものまね王座決定戦』で優勝してからは、コロッケという名前を認識してもらえるようになりました。

コロッケという芸名は、表情がコロコロ変わって面白いという理由で、かつてのショーパブのマスターがつけてくれたものです。

38年の芸能生活の中でコロッケさんはいろいろな人を見てきました。

有頂天になっていつの間にか凋落していく人、威張って人を見下し皆から嫌われていく人、人によって態度を変える人、人の足を平気で引っ張る人。

ともすれば、そういう風潮に流されがちな芸能界にあって、コロッケさんが「相手が一番、自分は二番」と素直に思うことができたのは「あおいくま」のおかげだと語っています。

(参考;『致知』8月号)

貧しい幼少期を経て、右耳が聞こえなくなるというハンデを乗り越えて、目立たない少年だったコロッケさんが自分の殻を破り、お母さんから教わった「あおいくま」を心の拠り所にして、見事芸能界で華を咲かせたのです。

人は心に思い描いたとおりの人物になれるという、典型的な事例だと思います。