人間学を学ぶ月刊誌『致知』2016年11月号の連載「禅語に学ぶ」を担当されている鎌倉円覚寺の横田管長さんが、「主人公」という禅語について、以下のように紹介していました。

この身の地位、名誉、財産、学歴、男女などに汚れない『主人公』がいる。

あなたにも、誰の中にも、その人の『主人公』がまぎれもなく住んでいる。

彼が私が善いことをした時には、私の心の底から喜びを与えてくれる。

彼が私が悪ことをした時には、私の心に動揺と反省を与えてくれる。

誰も観ていないと思っていても、いつもどこでも私の心と行動を観ている。

周りの人々の言葉に惑わされず、心静かで確かな目をもって見つめている。

彼は選り好みをせず全てを平等に扱い、自分を忘れて人々の幸福を心より願う。

他人の喜びを妬(ねた)まず我が喜びとして喜び、他人の苦しみ悲しみを我が苦として思い、常に穏やかな表情にて相手を思いやり、その言葉は心から愛情を込めて対話す。

彼は自分を偽らず、悲しい時には素直に涙し、嬉しい時には心の底から喜び、怒るべき時には晴天の雷のごとく、雷鳴の後は雲一つなく和らいだ光を放つ。

そういう『主人公』に出会えた時、人は歓喜し『悟りを得た』というのです。

私たちの宝は、何者にも奪われないものです。

だから私の宝は、あなたの宝にはなり得ない。

横田館長は、「『主人公』とは本来もって生まれた心であり、お釈迦様の説かれた「仏心」にほかならない。更に「仏心」とは、慈悲の心であるとお釈迦様は説かれている。」と結ばれています。

この主人公のことをシルバーバーチの霊訓では良心と呼び、中村天風は霊性心と呼んでいます。

いずれも同じことで、私たちは誰でも、この主人公、本心、仏心、良心、霊性心を生まれながらに具えているのですが、横田管長もおっしゃっているように、妬み、悲しみ、怒り、様々な欲望などの負の感情に囚われていまい、本来具えている主人公が顕在化しないことが多いです。

私たちがこの世に生を受けた目的は、この本来の主人公を常に顕在化させることであり、そして人のため世のために尽くすことなのです。