悟(さと)りを開くとは
お釈迦様は、悟りを開くことができないのはいろいろと考えることが多すぎるからだ、ものごとに捉われすぎるからだと言われました。
人間ならだれもがもっている仏性(仏の心)を自覚することが悟りを開くことになるのです。
山田無文師は、人間ならだれもがもっている仏性とは月のようなものだと説明しています。
妄想といい、執着という雲がかかっているから、明月すなわち仏性を見ることができないのです。
「雲晴れて後の光と思うなよ もとより空の有明の月」
と古人は詠っています。
雲がかかっているうちはわからなかったが、晴れてみれば星空に明月が輝いている。
きれいな月だなあとみんな感激するけれども、その月は雲がかかっていようといまいと、初めから輝いていたのです。
それを自覚しなければならないのですが、みんな自分の中に仏性があるのだということに気づかないのです。
悟りを開いた人と開いていない人ではどう違うのかというと、水と氷の違いにすぎません。
水と氷の成分はまったく同じです。
水素が2つと酸素が1つ、どちらもH²Oです。
成分に違いはありません。
しかし、頭を冷やさなければならない病人が氷を買いに行ったら、成分は同じだから水を使えと言われたのでは納得いきません。
水と氷では大きな違いがあるのです。
水はぬるいが、氷は冷たい。
水に形はないが、氷に形はある。
水は流れるが、氷は流れない。
水は叩(たた)いても壊れませんが、氷は叩くと壊れます。
水は魚を養い、草木を育てていきますが、氷は魚を殺し、草木を傷(いた)めていきます。
悟りを開いた人の心は温かい。
しかし、悟りを開いていない人の心は冷たいのです。
悟りを開いた人の心に形はありませんが、そうでない人の心には俺が俺がという我の塊があります。
悟りを開いた人の心は水が魚を養い、草木を育てるように、一切衆生を救済していく慈悲の心です。
そうでない人の心は自分さえよければ人はどうでもいい、人を苦しませても自分の利益をはかるという利己的な心です。
悟りを開いた人の心はさらさらと流れる水のように、何ものにも捉われませんが、そうでない人の心は些細なことにもいちいち捉われて執着します。
小川の水は、岩が突き出ていても、木の根が張っていても、少しも捉われずに流れていきます。
そのように何ものにも捉われないのが悟りを開いた人の心です。
そうでない人は、憎いといっては憎いものに捉われ、かわいいといってはそれに捉われ、お金がたまればお金に捉われ、お金がないと言ってはまた捉われます。
ことごとくに捉われ、執着して流れないのが悟りを開いていない人の心です。
悟りを開いた人とそうでない人には、これほど大きな違いがあります。
では、両者は別物かといえば、決して別物ではありません。
氷を溶かせば水になるように、俺が俺がという我の塊りをなくしていけば悟りを開くことができます。
(参照:「自己を見つめる-ほんとうの自分とは何か-」山田無文)
「雲晴れて後の光と思うなよ もとより空の有明の月」という句と同じような意味の句もあります。