幸田露伴の「努力論」に学ぶ(植福)
幸田露伴は、「努力論」の中で有福、惜福、分福、いずれもみな好いことですが、それらに優って卓越して好いことは植福ということだと述べています。
植福とは何かというと、他人や世間の幸せや喜びを増進する行為のことです。
植福の一つの行為は自ずから二重の意義をもち、二重の結果を生じさせます。
植福の一つの行為は自分の福を植えることであると同時に、社会の福を植えることになるから、二重の意義があり、後日自分がその福を収穫できると同時に、社会に同じく福をもたらす事になるから、二重の結果を生じさせるというのです。
最も些細(ささい)で最も身近な例を示すならば、ある人が庭に一つの大きなリンゴの樹を持っていたとします。
そのリンゴが毎年実り、美味を味わうことは、その人に幸福を感じさせます。
これはその人が幸福を有するものであり、すなわち有福です。
そのリンゴの果実をいたずらにたくさん実らせずに、樹の健全繁栄を保たせることが惜福です。
甘美な果実ができたところで、自分だけで食べずに、親類や友人、近隣に分け与えることが分福です。
有福ということには善も悪もありませんが、惜福、分福は尊ぶべきことです。
そして、植福とは新たにリンゴの種を播(ま)いてこれを育てていこうとすることです。
また、枯れそうになっている樹に薬を与えて復活蘇生させることも植福です。
自然界の成長を援助し、人々の福利を増進することが植福というのです。
一株のりんごの樹が数十、数百のりんごの果実を結ぶのであって、その一つの実からまた数十、数百の樹が生じ、果実と樹と交互に循環して、無限にりんごの果実を産出していくのです。
一株のりんごの樹を植えることははなはだ些細なことですが、その行為の中に包含されている将来はとても大きなものです。
その大きな結果は、もとは人の心の中に宿っているもので、一心一念の善良な働きはどれほどの福を将来に生ずるかも知れないのです。
一株の果樹は霜や雪に耐えれば、一定の時を経て無から有を生じ、甘く香りのよい果実を実らせます。
果実が実れば、これを味わう人に幸福を感じさせ、持ち主がこれを味わうにせよ、持ち主の親類縁者がこれを味わうにせよ、何人かが造物主の人間に贈ってくれる福の恩恵に満足し喜ぶに違いありません。
一株の樹を育て成長させることは、小さなことには違いありませんが、自分にとっても他人にとっても幸福や利益の源泉となることであり、これを福を植えるといって誤りはないのです。
このように幸福や利益の源泉となることを行うことを植福というのですが、この植福の精神や作業によって世界がどれほど進歩するか知れず、またどれほど幸福になるか知れないのです。
農業は植福の精神や作業を体現したかの観があるものですが、その種をまき、苗を植える苦労は、福神が人に化して、その福の道を伝えるために行うといってもよいほどのものです。
工業も商業もまた同じで、真に自分の将来の幸福、または他人の幸福の源泉となるものである以上は、これに従事する人はみな福を植える人です。
世の中に福を得たいと願う人はとても多い。
しかし福を得る人は少ない。
福を得て福を惜しむことを知る人は少ない。
福を惜しむことを知っても福を分けることを知る人は少ない。
福を分けることを知っても福を植えることを知る人は少ない。
稲を得ようと思えば、稲を植えるしかない。
ぶどうを得ようと思えば、ぶどうを植えるしかない。
この道理をもって、福を得ようと思えば、福を植えるしかないのです。
しかし、多くの人は福を植えることに気がつかずに過ごす傾向があること残念なことです。
(参照:努力論 (岩波文庫))
植福とは、今の言葉でいえば社会貢献ということで、世のため人のためになることを行うという事です。
幸田露伴は、リンゴの樹を植えることを一例として挙げていますが、いずれその樹が育ち多くのリンゴを実らせ、更にはそのリンゴの種が多くのりんごの樹となるということを繰り返していくことを考えれば、一株のりんごを植えるという行為がどれほど社会に貢献することかが分かります。