キリスト教は、聖徳太子の生まれた飛鳥時代には既に伝来していたという説があるそうです。

聖徳太子の幼い時の名前を厩戸皇子(うまやどのおうじ)と言います。

聖徳太子の母親が御所の中を見廻り、ちょうど馬小屋の前に来た時に産気づき、そのため馬小屋で太子を生んだので厩戸皇子と名付けられたと言われています。

しかし、日本の貴族が馬小屋でお産をするはずがありません。

また、貴婦人が御所の見廻りなどするはずがありません。

むしろ、この頃すでにキリストが厩屋の中で生まれたという話が伝わっていたからではないか。

だから、今度生まれた皇子は、イエスのように偉い方になるように、ということから厩戸皇子と名付けられたのだという説を称える学者がいるそうです。

その説によると、聖徳太子が建てた京都、太秦(うずまさ)の広隆寺、その太秦の周りを宇多野といい、妙心寺の近くを宇田川という川が流れています。

また、聖徳太子が薬草狩りをしたところが奈良の菟田野(うだの)で、これらの名称はすべてイスラエルのユダ野、ユダ川が訛(なま)ったものだということになります。

また、聖徳太子の時代に、キリストの伝説が入ってきていたと思われる話があります。

それは、聖徳太子が黒駒に乗って旅に出かけた時のことです。

奈良の片岡山の道端に1人の異人が飢えて倒れているのを見つけました。

聖徳太子は哀れに思い、すぐに馬から降りて介抱してやりました。

そして、自分が着ていた紫の上衣を脱いで、その異人掛けてやりました。

そして、旅から戻りさっそく近臣に尋ねました。

「あの片岡山に倒れていた外国人は、その後どうしたのだろうか」

すると、近臣が、

「実はかわいそうなことに亡くなってしまいまして、村の者が葬ったそうです」

と報告しました。

それを聞いた聖徳太子は、

「あれはただの人間ではない。一度その墓をあばいてみよ」

と言いました。

そこで、その墓をあばいて調べたところ、異人の死骸はあとかたもなく消えていました。

そして棺桶の中には、聖徳太子が掛けてやった紫の上衣だけがきちんとたたんで置かれてあったということです。

キリストは十字架に掛けられて昇天しました。

ところが亡くなったはずのキリストが説教している。

これはおかしなことと思ってその墓を調べてみると、紫の着物がたたんで入っていただけだというキリスト復活の伝説が、すでに聖徳太子の時代に入ってきていたと考えられます。

(参照:「自己を見つめる-ほんとうの自分とは何か-」山田無文)